- ジャンル:文学研究・評論
- 著者/編者: アントワーヌ・コンパニョン
- 評者: 白石純太郎
文学は割に合う!
アントワーヌ・コンパニョン著
白石 純太郎
この本の著者の、アントワーヌ・コンパニョンは、フランス・国立土木大学を卒業したエリートである。しかし、二十五歳の時に文学研究に身を投じた。理系から、文系への転身である。幼い頃から、文学に親しんだ彼は、自然と文学を志すようになった。その彼が、徹底的に文学を擁護したのがこの一冊である。
ところで、大学入試共通テストの時期や、Xで定期的に議論を巻き起こすものとして、「文系不要論」というものがある。いわゆる「コスパ」重視の現代社会において、文系、特に文学部は不要なのではないかという議論だ。加えて、「文学部では果たして何をやっているのか」という疑問が理系の方から、湧いてくる。それも、当然と言えば当然である。小中高と、読書感想文というものがあったが、理系の方々には文学とはそれ、もしくは教科書以上のものではないだろう。私などは、文系なのでその感覚がわからない。
しかし、完全にわからないとなったら噓になる。実際に社会に出てExcelの関数以上に、トーマス・マンが「役に立った」ことなどはないからである。また、文学によって感受性が「豊か」になって「しまった」私は、多方面で苦労することになった。トーマス・マンはあの『トニオ・クレエゲル』でこう主人公に言わせている。「文学は呪いなんですよ!」と。この本は、文学を徹底的に擁護しながらも、その対抗者の存在も忘れない。文学の呪いにかかってしまったが故に、文学から離れようとするが、離れられない、あの我が親しき老ポール・ヴァレリーから、電子書籍・オーディオブックまで。それでも、著者は言う。「文学がだめだと主張するのはもうやめましょうよ!」と。
この本はエッセイである。学術書ではない。であるから、論理立てて、文学を擁護するということでは少なくともないし、文学とはそういうものでもないと私も考える。著者の主張の基本的なことは、「人間喜劇がわからなければ、ファイナンスもわからない」というものである。ファイナンスをする場合、単に数字を見ればいいという問題ではない。「人」を見なければいけないのである。また著者は言う。文学研究者は、優れたプログラマーでなくてはならないと。実際のところそうであって、感覚的と思われがちな文学研究ほど、冷徹な知性を使う必要のあるものはない。
著者は、古フランス語にあった、レトリュールという言葉を援用する。レトリュールというのは、何よりも単純に、教養であり、文学的修養のことである。彼が問いたいのは、「察するレトリュール」であり、文学的コンピテンシーのことなのである。
そして、カルヴィーノの言葉を引用し、「文学は、厳しさ、慈愛、悲しみ、皮肉、ユーモアなど、必要で難しいこうした事柄を教えられる」と言う。レトリュールとは、特権であり、生まれとともに与えられるが、獲得することもできるとも言う。文学的知性の可能性がここでも語られている。
著者は、文学の「実利的」効能にも側面を向けている。『デジタルバカにならないためには本を読ませよ』という本で、認知機能を上げるためには、電子書籍ではなく、紙の本が効果的であると主張している点を紹介しているのもそうである。また、文学と読書を圧縮したレトリュールは、「待つことができるものにとって」大きな利子がある長期的投資であると言う。文学は想像力を鍛える。フィクションないしは批評で、考え方を鍛える。その考えるヒントというものは、社会において必ず「割に合う」。
そもそも、割に合うとはどういうことか。金銭を生むであるとか、新卒一括採用で入った会社の、嫌な言葉を使えば「即戦力」になることなのだろうか。もっと人生の根幹、還元的な実存に関わる、「割に合い」方をするのではないだろうか。例えば、AIを使っていても、そこに文章のリテラシーが無ければAIという「計算機」に使われるだけであろう。著者の言うレトリュールとは、リテラシーということでもあろう。AIを有効的に使うためには、まず自身の考えたいことを正確に反映させたプロンプトを入力しなければならない。そのプロンプトを考えるのは、人間の文学的レトリュールではないだろうか。それは、AI時代にこそ、かえって必要とされるのかもしれない。本書は、その宣言書である。(本田貴久訳)(しらいし・じゅんたろう=ライター・書評家)
★アントワーヌ・コンパニョン=コレージュ・ド・フランス教授・コロンビア大学教授。ベルギー、ブリュッセル生まれ。プルースト、モンテーニュ、ボードレール、文学史、文学理論に関する著書が多数ある。一九五〇年生。
書籍
| 書籍名 | 文学は割に合う! |
| ISBN13 | 9784867931264 |
| ISBN10 | 4867931268 |
