フィレンツェのルネサンス絵画
伊藤 拓真著
京谷 啓徳
イタリア・ルネサンス美術というと、三大巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロ、あるいは《ヴィーナスの誕生》を描いたボッティチェリなど著名な芸術家が目白押しで、それらに関する出版も盛んである中、『フィレンツェのルネサンス絵画』と題する本書はありそうでなかった本である。
イタリア・ルネサンス美術の歴史に関しては、一六世紀のジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝』の語りがいまだに踏襲されることが多い。ヴァザーリによれば、一三世紀末から一四世紀前半に活動したジョットを先駆者として、一五世紀初頭のフィレンツェでマザッチョにより新たな美術が生み出され、ミケランジェロという絶頂に向かってあたかも単線的であったかのように発展していった。そして一六世紀になると美術の中心は、フィレンツェからミケランジェロやラファエロの活躍したローマへと移っていく。本書はこのようなルネサンス美術の語りに見直しを図るものである。
本書は一四二〇年から一五三〇年の約一〇〇年にわたるフィレンツェ絵画の歴史を一〇年ごとに記述する通史となっている。本書で目に付くのは、「〇〇(画家名)の前期」、「〇〇の中期」、「〇〇の後期」、といった見出しである。普通の通史であれば、ある画家が出てくればその生涯を述べ、また少し年代を遡って別の画家の生涯を述べという形で、多かれ少なかれ列伝的に歴史が記述されるのに対して、本書では記述が一〇年ごとに区切られているため、同じ画家が複数の章に何度も出てきて、その一〇年の間の他画家との関係も細やかに記述される。そのような形で一〇年ごとに区切ったフィレンツェ絵画史を、四〇〇点以上におよぶ図版(比較的珍しい作品も含まれる)とともに見事に実現してしまったのが本書である。
この構成により本書は、個々の画家の実践および画家たちの関係性の積み重ねとしてのルネサンス・フィレンツェ絵画の歴史を描き出すことに成功している。すべての画家が同じ課題を追求していたわけではなくとも、互いに交差しゆるやかに接続されたその積み重ねが伝統として認識されていき、連続体としての「フィレンツェ絵画」というものが作り上げられたのだという主張には説得力がある。そこではヴァザーリ的な価値観からは評価されなかった「群小作家」たちへの目配りも忘れられることはない。
フィレンツェ絵画史をフィレンツェで制作された絵画の歴史と定義する本書は、もっぱらフィレンツェ内での美術活動を扱うが、場合によっては一時的に舞台がローマに移ることもある。それは例えば一五世紀のシスティーナ礼拝堂装飾に関するくだりである。その折にはボッティチェリ、ギルランダイオなど複数のフィレンツェの画家がローマに招かれた。画家たちは同じ制作の現場で切磋琢磨し、たがいに影響を与え合い、フィレンツェ絵画における一つの画期となったというのだ。
さて一六世紀のフィレンツェにおける絵画制作については、専門家はともかく一般的にはあまり知られていないかもしれない。ミケランジェロやラファエロは教皇に招聘されてローマに去ってしまったが、フィレンツェではフラ・バルトロメオ、アンドレア・デル・サルトといった画家たちが引き続き充実した活動を行い、規範として受け入れられていたのだ。彼らについて十分な記述を有することは本書の売りの一つであろう。そしてアンドレア・デル・サルトの弟子であったポントルモやロッソ・フィオレンティーノにより、フィレンツェ絵画はいわゆるマニエリスム美術へと展開していくことになるが、本書はその間の経緯についても作品に即して丁寧に論じている。
本書全体を通じて、あくまでも作品の造形分析に即して語るという態度が一貫されており、説得力のある作品分析が披露される。ディスクリプション(言葉による視覚イメージの記述)は美術史学の基本だが、本書ではおのおのの作品が的確な言葉遣いで記述されていて、とりわけ美術史を学ぶ学生にとって恰好の手本となるだろう。逆に作品の図像内容に関しては踏み込んだ記述は少ないので(そもそもそのことを意図していない)、それぞれの作品の図像学的研究に関しては個別に研究書や論文に当たる必要がある。
序章「フィレンツェ絵画の舞台」では、第一章からの歴史叙述に入る前に、フィレンツェのルネサンス絵画史を理解するための様々なトピックが取りこぼしなくコンパクトに説明されていて、前提となる知識を十全に得ることができる。以下それぞれの章は長すぎず、興味関心を維持したまま読み切ることが可能だ。これも一〇年ごとに区切ったメリットの一つだろう。序章、終章を合わせて全一三章構成なので、大学の授業の教科書にも使えそうで、一回一章で行けば半年、二回で一章分の進度にすると通年の講義になる。伊藤先生の講義を受講する学生になった気分で本書を繙くのもよいかもしれない。(きょうたに・よしのり=学習院大学教授・西洋美術史)
★いとう・たくま=九州大学大学院准教授・イタリア美術史。著書に『ルネサンス期トスカーナのステンドグラス』など。一九七七年生。
書籍
| 書籍名 | フィレンツェのルネサンス絵画 |
| ISBN13 | 9784883036233 |
| ISBN10 | 4883036235 |
