掌の美術論
松井 裕美著
大澤 慶久
わたしたちは美術史家や批評家を、さらには作品をも出来合いの図式で片づけてしまいがちだ。ヴェルフリンといえば視覚性、グリーンバーグといえばメディウムの純粋性、《ゲルニカ》といえば戦争の悲惨さを訴える絵画といった具合に。ラベルによって読んだ気になり、見た気になり、乗り越えた気にすらなる。だが膨大な文献を読み思索を重ねた先人の思考が、そうした図式にぴたりと収まるだろうか。本書は、美術史の中で位置づけられてきたテクストや作品を、そこに潜む触覚の痕跡をたどりながら、今一度掌のうちの断片として手に取り、新たなつながりを紡いでいくものだ。
その筆致は軽快で射程は広い。ミケランジェロに帰された素描やマッハの挿絵から、ヘルダーやリーグルの触覚論、セザンヌを経て、カーアンの仮面、ローナ・シンプソンまで、五百年にわたる作品と言葉が、触れることを基軸に矢継ぎ早に手繰り寄せられ、松井自身の美術論へと編まれていく。そして読み進めるにつれ、離れた箇所の考察が思いがけず響き合い、章をまたぐ新たなつながりが読者の前に浮かび上がる。著者が冒頭で本書を「考察の記録」と位置づけるのもこうした叙述のあり方ゆえだろう。
例えば第二章では、ヘルダーとヴェルフリンに触覚の記憶や経験を「見る」行為のうちに呼び起こすという共通点が見いだされ、そこからベレンソンの「触覚価値」、ヒルデブラントの視覚と触覚の対話へと議論が展開される。さらにリーグルへ進むと、表面を撫でるように見るその手と、輪郭線をなぞるヴェルフリン、表現された身体の感覚と同一化しようとするヒルデブラントやベレンソンの手との差異が際立ってくる。松井は触覚という主題のもとに議論を結び合わせながら、そのつど各論者の違いにも細やかに目を配るのである。学説の内容をたどりながらも書き手の所作を掬い上げる、その手さばきには思わず舌を巻く。
第三章のグリーンバーグ論でも、共通する言葉を手がかりに議論を結びつけ、その異同を読み分けていく。彼のクールベ評から松井は「絵そのものを堅牢で触ることができるものにしようとする欲望」という言葉を拾い上げ、前章のベレンソンへ折り返して、再現性に結ばれた「触覚価値」と顔料の物質レベルで語られる触覚性とを対照させる。さらにはクールベ自身やデュレのいう「触ることができる」性質を並べ、その内実の隔たりを示してみせる。
こうした触覚を基軸とする読解は、個々の作品の分析に及ぶ。第五章の《ゲルニカ》では、浅い奥行きが見る者に画面への接近を求め、近づくほど絵の具の塗られた平面が意識される、その緊張が丹念にたどられる。「手を伸ばせば入れそうな空間だが、心の手を伸ばした途端に絵の具が塗られた平面が立ち現れる」。色彩や装飾、再現性を削いだ「貧しさ」は、感情移入や没入を阻む一方、一体化できない他者の痛みを自らの身体感覚を手がかりに想像するよう促す。そうして、その往復の中で他者に触れようとする思いは叶わぬまま残るのだ。
この第五章では、プロローグ以来折々に姿を見せてきた「遊び」が大きく前景化する。そしてその関心は第七章のクラウス論へと引き継がれ、今度は批評家の営為それ自体へと向けられる。クラウスは過去の言葉やイメージを自らの遊戯場に持ち込み、そこで新たな関係を探る。映像の中で彼女がこぼした一つの笑いに松井が見いだすのは、老成した子供のような批評家の姿だ。読み終えるころにはその遊びがこちらの手にも移っているだろう。
「掌の美術論」とは、美術史家や批評家の掌であり、松井自身の掌であり、読者の掌の美術論でもある。著者は本書の終わりを語りの継続を予感させる「息継ぎ」と呼んだ。次の息を継ぐのは読者である。松井の掌を介してたどった先人たちの手ざわりを今度は自身の手で編んでみてほしい。それはやがて「わたしの美術論」として読者の掌のうちに新たな形をとるに違いない。(おおさわ・よしひさ=東京藝術大学非常勤講師・美学・美術史・美術批評)
★まつい・ひろみ=東京大学大学院准教授・美術史・美術批評。著書に『キュビスム芸術史』『もっと知りたいキュビスム』、編著に『古典主義再考Ⅰ・Ⅱ』(木俣元一共編)『レアリスム再考』、訳書に『アナロジーの奇跡』『現代アート入門』『受苦の時間の再モンタージュ』など。一九八五年生。
書籍
| 書籍名 | 掌の美術論 |
| ISBN13 | 9784326852079 |
| ISBN10 | 4326852070 |
