大江健三郎を読む
小森 陽一・成田 龍一著
小林 成彬
二〇一四年、岩波文庫から『大江健三郎自選短篇』が刊行された。だがこれは、過去の短篇を単に選び直した作品集ではない。大江は収録作の細部にまで大幅な「書き直し」を施している。「奇妙な仕事」の「私大生」は「院生」に変わり、「他人の足」の主人公は十九歳から十六歳になる。一方、「飼育」では、戦時下なら「国民学校」であるはずの学校が「小学校」のまま残された。
本書は小森陽一と成田龍一による朝日カルチャーセンターでの公開対談を再構成したものである。『大江健三郎自選短篇』を基本テキストとし、こうした一語、一箇所の異同の指摘を通じて、大江の歴史認識が鮮やかに剔出されていく。例えば「飼育」の「小学校」について成田は、戦時下に国民学校へ通った大江にとって、戦中と戦後は断絶ではなく、連動したものとして捉えていたのではないかと論じる。このような現実との細やかな「ズレ」を見つめることから、テキストとしての小説の厚みが見えてくる。『自選短篇』の諸作品には、「戦後」(執筆時)と「ポスト戦後」(書き直し)の位相が重層的に織り込まれている。方法としての「書き直し」は、過去と現在との距離を作品内部にあらためて刻み込む行為であり、同時に、書き直されなかった語にも読者の目を向けさせる。なぜ大江を読むことは「戦後」を読み直すことになるのか。本書はその問いを作品の微細な表現から立ち上げてみせるのである。
この視角は、一九八〇年代の『「雨の木」を聴く女たち』や『新しい人よ眼ざめよ』にも及ぶ。「戦後思想」が「現代思想」にとって代わられる結節点に書かれた連作短篇小説を改めて読むと、ここで大江が、それまで「戦後思想」において自明視されてきた民族=言語統一体そのものを問い直していたことが見えてくる。とりわけ『「雨の木」を聴く女たち』に記されたコーネル大学日本語科の学生が酒井直樹の教え子であったことを指摘する点は評者にとって興味深い。ポストコロニアルな翻訳論を展開した酒井の議論を補助線にすれば、作品内の「翻訳」は単なる言語間の置換ではなく、誰が、どの言語共同体を前提にして語るのかという問題へとつながる。それどころか、大江の叙述は、酒井の議論を先取りしているようにさえ思われる。「戦後思想」を継承するだけでなく、その前提を内側から崩していく大江の「書き直す」という仕事の方法が、一九八〇年代の作品から照らされる。
評者にとって最も刺激的だったのは、『取り替え子』と『水死』をめぐる対話である。前者については、小森の『歴史認識と小説』(講談社、二〇〇二年)で示された、丸山眞男からの「引用」と原典との「ズレ」を手がかりに大江の歴史認識を読む議論が、成田との対話のなかで平易に語り直される。『水死』については、大江が小森からバフチンの説明を聞き、また漱石『こころ』の解釈でも小森を参照していたことが語られる。ここでは作品解釈のみならず、小説が成立する現場の証言としても極めて貴重である。
もちろん、個々の解釈について、評者としては異論も少なくない。例えば『万延元年のフットボール』の「フットボール」の由来を考えるなら、まずは大江自身が語った中野重治の詩との関係を挙げるべきだろう。更に、サルトル『弁証法的理性批判』において、フランス革命時のバスティーユ襲撃と並んでフットボールが集団形成の例として特権的に挙げられることも無視できないのではないか。同時期に百姓一揆を論じた安丸良夫がサルトルの同書を深く読んでいたことまで考え合わせれば、なおさらである。
本書は、結論を受け取るための単なる解説書ではない。大江の一語一句を「戦後」と「ポスト戦後」との緊張感のなかで読み直すための本である。対話形式は平易だが、読者に要求する読みは決して平易ではない。本書は、大江健三郎への格好の入門書であると同時に、大江をすでに読んできた者の読み方をも激しく揺さぶる一冊である。(長瀬海構成)(こばやし・なりあき=國學院大学非常勤講師・フランス現代思想)
★こもり・よういち=東京大学名誉教授・日本近代文学。著書に『戦争の時代と夏目漱石』『漱石を読みなおす』など。
★なりた・りゅういち=日本女子大学名誉教授・近現代日本史。著書に『近現代日本史との対話』『戦後史入門』など。
書籍
| 書籍名 | 大江健三郎を読む |
| ISBN13 | 9784087214239 |
| ISBN10 | 4087214230 |
