プガチョーフ叛乱
豊川 浩一著
巽 由樹子
1773年、ロシア帝国で大叛乱が起きた。首謀者はエメリヤン・プガチョーフ。皇帝ピョートル三世を僭称し、南ウラルのヤイーク川やロシア中部のドン川流域のカザーク(コサック)、ムスリムであるバシキール人、古儀式派を含むロシア人農民らを糾合すると、東部の要塞都市オレンブルクやヴォルガ河畔の街カザンを攻略し、領主貴族たちを虐殺したのである。クーデターで即位してまだ10年余りのエカテリーナ二世の政権は、大きく動揺した。
かつて社会主義体制下のソ連の歴史学者たちはこの叛乱を、農民による階級闘争と性格づけた。他方、女帝エカテリーナについての邦訳書で知られるH・カレール・ダンコースら、西側の研究者はしばしば、多民族帝国の中でのカザークの自治をめぐる事件として扱った。だが本書の著者の構想はもっと大きい。プガチョーフ叛乱は「18世紀ロシア、さらにはその後のロシアの抱えるすべての問題に対する民衆からの応答」であり、ロシア史の特質が凝集された現象だったという見取り図が示されるのだ。
「すべての問題」とは、18世紀初めから国家が強力に進めた西欧化・規律化によるひずみである。すなわち、厳格になった農奴制から逃れようと、多くの民衆が故郷を捨てて辺境に逃亡したこと。工場の働き手として登録された農民たちが、過酷な待遇を強いる領主貴族に不満を募らせたこと。常備軍が整備されたために、カザークが軍事力として尊重されなくなったこと。ロシア人の入植が進められてバシキール人の所有地が没収されたこと。夫ピョートル三世を倒して帝位についた、ドイツ出身のエカテリーナ二世の正統性への疑義。そして、古儀式派が守る信仰の伝統への共感――著者はこうした多岐にわたる要素が叛乱の原動力となったと、明快な章構成と数多の史料によって論じる。
ロシア語史料を渉猟した本書の優れた点は、学術的な堅牢さに加えて、この叛乱の関係者の声を聞けることだ。プガチョーフを支え、後にエストニアに流刑されて世紀末まで苦しい生を送ったバシキールの首長サラヴァトとその父の思惑や、ペテルブルクに駐在する外交官たちが叛乱の深刻さを諜報して欧州に広めたのを、女帝エカテリーナが哲学者ヴォルテールを通じて火消しを狙ったカウンターインテリジェンスなど、様々な事例が興味深い。また、著者が文書館で撮影したプガチョーフの手による文書と署名(読み書きができなかったので、謎の文字が書きつけられている)には、彼の実在を感じてちょっと興奮してしまう。
ただし、叛乱鎮圧後の当局による聴取資料に依拠しているから自然だとはいえ、そうした声の訳文はやや生硬であるようにも思われる。プガチョーフがペテン師と呼ばれたことや、レーピンが描いた「トルコのスルタンへ手紙を書くザポリージャ・コサック」に見るカザークの不遜な荒くれぶりを思うと、民衆の世界を捉えるのにフォークロア研究などが参照されてもよかったのではないか。また、本書の目的は叛乱に結晶するロシア史の諸問題の精査だから、動乱のさなかのプガチョーフ自身についての記述はそれほど多くなく、彼の後ろ姿しか見えないようなもどかしさを覚える部分もある。もっともそうした要望を満たすには、あわせてプーシキンの『プガチョーフ叛乱史』(草鹿外吉訳、現代思潮社)をひもとくのがよいかもしれない。
近年、プガチョーフ叛乱についての研究は世界的に少ない。北米の大学では、現在の国際情勢につながるソ連期の研究が主流になり、帝政期に取り組む若手研究者が育ちにくくなっていると聞く。邦語で18世紀ロシア史の大きな成果に触れられるのは実は幸運であり、本書は長く読み継がれる一書となるだろう。そして著者による、地方の民衆が期待に衝き動かされ、都会のエリートが不気味さに脅えた叛乱のメカニズムの詳細は、二極化する現代世界を考えるにも示唆的で、歴史学研究の底力を見たように思うのである。(たつみ・ゆきこ=東京外国語大学准教授・ロシア近代史・メディア史)
★とよかわ・こういち=明治大学教授・ロシア近世・近代史。著書に『ロシア帝国民族統合史の研究』『十八世紀ロシアの「探検」と変容する空間認識』など。一九五六年生。
書籍
書籍名 | プガチョーフ叛乱 |