2026/06/12号 5面

看護師を長く続けてわかったこと

看護師を長く続けてわかったこと 宮子 あずさ著 水口 義朗  「看護師として38年目の春を、精神科病院の慢性期閉鎖病棟で迎えています。ここで私が日々痛切に感じているのは、長く患うことの大変さ。これに尽きます。看護師になって9年間、私は内科病棟でたくさんの亡くなる人と関わってきました。この時期、私に強い印象を残したのは、ほとんどが亡くなった患者さんです。人が死ぬ、という事実はあまりにも衝撃的で、その他のことが霞んでしまったほどでした。その後精神科病棟に異動すると、人が亡くならない日々がしばらく続きました。正確には、精神科病棟に移った1996(平成8)年から緩和ケア病棟の看護師長を兼務する2003年まで。患者さんを看取る機会はほとんどなくなったのです。  患者さんの死が仕事から遠のいてみると、代わって近景に浮かび上がってきたのが、病気をすることそのものの大変さ。これは本当に申し訳ないのですが、それ以前の私は、死にばかり目がいき、病気が見えていなかったのです」  著者は、看護師としての初心から、自分の立位置を著してきている。「看護は自分自身の感情や信念、こだわりを再発見する、自己と向き合う機会でもあります。そしてその感情や信念が目の前にいる患者さんを受け入れがたくしてしまう、そんな困難に直面することがあります。自分をなだめすかし、自分の限界を乗り越えながら行う看護は、さながら自分との闘い」だと書いている。  内科病棟で新人時代を過ごした著者は、年間五〇人の患者の亡くなる臨床を経験し、現在までのキャリアの中で、少なくとも五百人をこえる患者の死にゆく過程を見てきている。精神科で働く場合と内科病棟での勤務のちがいは、死に立ち会った数以上に、死にゆく過程を見た数の多さだと考える。  本書で書かれている病める人間の行為、生態は、事実は小説より奇なりなんて一口にいう生やさしさではない。病態は奇妙、奇怪ともいえる。  肉体労働、頭脳労働につぐ第三の労働形態に感情労働があるが、この三つの労働を看護師という医療者はたえず働かせており、それこそがこの仕事の醍醐味でもあると書く。  一例をあげると、「くさくても顔に出さない 看護の基本」で、壊死したがんの強烈な悪臭の臨床例を医師が看護専門学校での授業で話し、「医師も看護師も、くさい時にくさいと顔に出しては絶対にいけない、鼻をつまむなど許されない」という一言を大切にしている。排泄物の臭いというのは、日常的に扱っていると、意外に慣れるもので、仕事中、便の臭いにたじろぐことはまずない。仕事で扱うのは排泄物、仕事を離れて突然目にするのはあくまでもうんこ。著者はオートバイを愛用していた。路地裏に停めていたときに、シートの上にけっこうな太さのうんこをやられてしまった。シートからうんこを退け、拭き取るときに、その臭気に「これは絶対に人間のうんこだ」と確信しつつひどく参ってしまった。そのとき、自分が排泄物に動じないのは看護師として働いている時のみなのだと理解したと語る。  著書を読みながら、これまでに数十冊の本を医療者として働きながら書き、実存というテーマにぶつかっていったのは必然だなと納得した。看護師の仕事と人生を研究テーマとする新しい領域の研究に取り組み、〝看護師の実存から探る臨床看護の本質と、それを職業として生きる意味〟に深堀りしていく道理である。  数多くのインタビューデータに基づく病気と人についての質的研究、その中心となる哲学がサルトルにむかうのも、そうだろうと思わせる。著者にとって実存とは、〝生きる上でその人が引き受ける切実さにほかなりません〟である。  「看護師の実存から探る看護の本質と、それを職業として生きる意味」「看護学研究におけるサルトル哲学の可能性」、この二つで著者は二〇一二年度東京女子医科大学大学院看護学研究博士後期課程学位論文で学位を授与されている。東京新聞の「本音のコラム」でも軽妙でまっとうなコラムが評判であった。  五年前に『まとめないACP 整わない現場、予測しきれない死』という著書で、ACP(人生会議)のポスターを見て〝シネシネ会議〟、国が広めようとしている反延命主義の気配に危惧を覚えると警告を発した。(みずぐち・よしろう=文芸評論家)  ★みやこ・あずさ=看護師として働きながら著述を行う。大学通信教育で学び、東京女子医科大学大学院で博士(看護学)を取得。著書に『看護婦だからできること』『看護婦が見つめた人間が死ぬということ』『気持ちのいい看護』など。一九六三年生。

書籍

書籍名 看護師を長く続けてわかったこと
ISBN13 9784906905263
ISBN10 4906905269