2026/09/04号 4面

身体の美学入門

身体の美学入門 伊藤 亜紗著 小田部 胤久  ドイツで一八世紀半ばに誕生した美学(英語ではエステティクス)は、語源に即すれば「感性学」でありながら、長らく実質的には芸術理論ないし美の理論であって、二〇世紀も末になってようやく感性をその主題とするにいたった。感性は身体と密接に結びつき、人間の意識を支える一方で、意識を逃れる側面をも有するために、その主題化は極めて困難である。『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『手の倫理』などにおいて、身体と美学との関係をさまざまに問うてきた美学者の伊藤は、本書において身体の美学=感性学を正面から体系的に論じる。  著者は一八世紀半ばにおける美学の誕生の現場に立ち会いつつ、美学が前提とする人間とは、効率性や計画性によって説明できる合理的存在ではなく、「感性」という自分でも制御できないような力をうちに含み込む「生々しくラディカルな存在」、すなわち「私の中の他者」である、という。身体的習慣に裏打ちされている感性は、一方で文化の継承という面で規範的に作用するが、その裏面として、古い価値観やステレオタイプ的なものの見方を無意識に継承してしまうこともある。ところが、感性はまた同時にこうした規範から自由でありえ、規範から逸脱する側面をも有する。感性のこのような二面性を著者は人種的マイノリティを例に明らかにしていく。  人はしばしばマイノリティを醜い存在とみなす。著者によれば、私たちは見知らぬものとの出会いを介して自己のアイデンティティを揺るがされ不安を感じるとき、このような差別的な美的判断をとおして、自分たちではないものの「他者化」、ならびに自分たちのアイデンティティの維持を図る。ここでは感性は「境界線の画定」によって他者(マイノリティ)を「排除」する力として作用する。他方、差別されるマイノリティは、自らを取り囲むマジョリティ(という他者)の目で自分を見るように常に強いられるために、自分の身体にくつろぐことができない。したがって、マイノリティにとっての「美学」とは、自分が居心地がよいと感じる「生活のスタイル」を作り上げるという意味において、生き方の変革となる。このとき感性は、他者(ここではマジョリティ)を排除するのではなく、むしろマイノリティを一つにまとめる「求心力」として作用するであろう。  無論、良心的なマジョリティはこうした差別を否定するが、しかしリベラルな信念は往々にして、「違いについて何も感じるべきではない」という「感性に対する口封じ」を生じさせる。こうした態度はかえって反リベラルな感性を温存しかねない。ここで著者が着目するのが、感性の逸脱的で奔放な力である。感性は時としてマイノリティに対する「ラベル的な見方」を脱して、個別的な存在に「はっとさせ」られ「釘づけ」になる。著者はこうした感性の働きを、プラトンの『饗宴』に倣って、「エロス」と特徴づける。私たちは他者に圧倒され、それまでの判断基準に変更を迫られ、そしていつしかその他者を愛し、その人格を承認することになる。著者は、正義をあまりに前面に出すことは、こうした感性の変容の可能性を抑圧していないだろうか、と読者に問いかける。感性の奔放な力は、抑圧されると、あらぬ方向に暴走しかねない。移民や外国人に対する感情的ともいえる排外主義的な運動は、こうした暴走の一例であろう。  さまざまな差異のネットワークのうちにあって私たちはコンプレックスと自惚れに翻弄されて生きているが、著者は読者一人一人に、人間とは習慣にとらわれながらも、それでも新しいものに惹かれて自らを刷新しうる(あるいは、刷新してしまう)存在であることを気づかせてくれる。身体に根ざした感性はたしかに曖昧でやっかいではあるが、本書はそのような存在をまるごと肯定する「人間礼讃の書」である。(おたべ・たねひさ=放送大学客員教授・美学・芸術学)  ★いとう・あさ=東京科学大学教授・美学・芸術学。著書に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』『どもる体』『記憶する体』『手の倫理』『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』『感性でよむ西洋美術』『体の居場所をつくる』など。一九七九年生。

書籍

書籍名 身体の美学入門
ISBN13 9784121029164
ISBN10 412102916X