オペラ・ベーシック講座
デニース・ギャロ著
山本 まり子
本書は19世紀のイタリア・オペラ研究を専門とするアメリカの音楽学者デニース・ギャロ Denise Gallo による Opera: The Basics.(London; New York: Routledge, 2006)の全訳である。原著は、専門用語に頼らず平易な言葉で学術的なテーマを解説する、ラウトレッジ社の「ベーシック講座」シリーズの一冊である。邦訳を監修した丸本隆、嶋内博愛、添田里子、森佳子を中心に、早稲田大学のプロジェクトを契機として活動してきたオペラ研究グループが数年がかりで講読会と邦訳の推敲を重ね、日本語版の刊行に至った。
丸本が「あとがき」で指摘するように、ギャロの著作は「単なる紹介にとどまらない、体系的なオペラ論」という点に特色がある。近年のオペラ研究は音楽・文学・演劇に加え、身体性やジェンダー論、興行なども対象とする学際的分野へと発展している。一方、日本で刊行されるオペラ関連書の多くは、歴史、作品や作曲家・原作・台本の紹介、歌手・指揮者・歌劇場の案内、鑑賞法などを扱う啓蒙書である。オペラの理解には音楽だけでなく多分野の知識と教養が求められるため、音楽愛好家の間でも「オペラは敷居が高い」というイメージはいまだ根強い。本書はオペラに関する「専門書」と「一般書」との間に「行き来がない」という問題意識を背景として、両者を橋渡しし、学術的知見を平易に提示することで、読者をより深い探究へと導くことを目指している。
全体は第Ⅰ部「用語、テーマ」と第Ⅱ部「ジャンル、様式、スコア」の2部構成をとる。歴史を時系列にたどるのではなく、テーマごとに歴史、地域・言語、社会との関わりを横断的に論じる点が特徴的だ。例えば第8章「シリアスなオペラとセミ・シリアスなオペラ」と第9章「喜劇的オペラとオペレッタ」において、イタリアとフランスを軸に各国のオペラの歴史的展開が語られる。第3章ではオペラの根幹をなす「音楽とテクストの関係」を取り上げ、イタリア語・ドイツ語・フランス語の韻律と音楽との関係を具体例によって解説する。また、第6章「オペラ 劇場の内と外」と第7章「社会の鏡としてのオペラ」では、劇場建築や上演史に加え、録音、放送、インターネット配信まで視野を広げ、オペラを社会的・文化的現象として考察する。これに対し、第2章「音楽用語」、第4章「専門職のいろいろ」、第5章「歌手」では基礎知識が整理され、随所に配されたコラムも本書の有用性を高めている。
一方、翻訳書としての留意点もいくつか挙げられる。第一に、記述がイタリア・フランス・ドイツ語圏に偏っており、ロシアを含むその他の地域への言及が限定的な点である。ただし、この点は資料編の文献案内によってある程度補われている。第二に、術語の扱いに若干の違和感が残る。特に、序章や第11章「スコアと版」で言及される「ホログラフ」と「オートグラフ」について、英語圏の音楽学では「ホログラフ」と「オートグラフ」は区別されるが、日本の文脈では前者の用語は一般的でない。そのため、「多くのホログラフはフル・スコアである」という一文は読者に誤解を与える可能性があり、訳注による補足が望ましかった。第三に、巻末の「ディスコグラフィー/ヴィデオグラフィー」の実態が、具体的な録音・録画資料の一覧ではなく代表的なオペラ作品のレパートリー表として掲げられており、項目名と内容が一致していない。これらは、著者の研究領域や英語圏のオペラ研究を背景として執筆されたことにも由来するのだろう。
総じて、10名による共同作業を経た翻訳は自然で読みやすく、適宜付された訳注も理解を助けている。全体を通読するだけでなく、関心のある章から読んでも理解できる構成も実用的だ。日本では「オペラ学」を総合的に学ぶ機会が限られる中、専門知と一般読者を結ぶ本書の意義は大きい。このような出版企画が今後さらに充実することを期待したい。(丸本隆・嶋内博愛・添田里子・森佳子監修)(やまもと・まりこ=聖徳大学教授・音楽学)
★デニース・ギャロ=アメリカ・カトリック大学助教授・音楽学。著書に『バンダのための音楽』(未邦訳)など。
書籍
| 書籍名 | オペラ・ベーシック講座 |
| ISBN13 | 9784865593310 |
| ISBN10 | 4865593314 |
