日韓スタディーズ
李 里花編
櫻井 信栄
現代社会の足元に束ねられてきた歴史、記憶、表現、差別、連帯、そして越境の経験の複雑さを前にして、一体どこから語ればよいのか私たちは逡巡し、往々にして国家(日本、韓国…)という見取り図に手を出す。道に迷ったとき、その道を本当に歩いた人が作ったわけではないスマートフォンの地図アプリへ指を伸ばすように。
本書はその「語る困難」のただ中へ、音楽・舞踊・ラップ・文学・演劇・絵画・映画といった領域から一歩ずつ踏みこんでゆく。国民国家の枠組みとそこからこぼれ落ちる文化を見つめること。ここで言う「文化」とは単なる装飾でも人間性の上澄みでもない。時に傷を伴いながら、人が表現しようとする「生のかたち」である。本書はそのかたちが幾度となく排除され、分断され、交差し続けてきたという事実の累積であり、批評のための手書き地図でもある。
第一章の座談会で交わされるアーティストたちの証言は、文化の実践がどのようにして境界と関わるのかを明らかにする。第四章でラッパーのFUNIが語る〈在日コリアンの代表ではないが、representという言葉を「re-present(再び現在)」として再解釈し、百年前、声なき声として周縁化されて存在を忘れ去られてしまった人々の言葉を想像力を用いて「再び現在」に甦らせるべく表現を試みた〉という言葉には、歴史を「受難」だけで幕切れにさせないとする強い意志が宿っている。FUNIのラップはのっぺりとした制度的言語の亀裂から立ちのぼってくるアフェクティブな抵抗である。彼の声からは歴史の重圧や排他的視線に対する怒りだけでなく、既存のどんなものによっても表現しきれない、自分の存在(の限界)に向き合ったときの震えが、確かな響きとして聞こえてくる。一方で在日コリアン女性アーティストが抱える抑圧は、男性の民族的抑圧と異なる位相を持つ。彼女たちは女性としてのジェンダー規範、「在日コリアン」としての民族的抑圧、そして芸術活動における「マイノリティアーティスト」という視線の三重苦にさらされる。その交差が彼女たちの芸術に固有の創造性を刻むことになる。そこには男性中心的な民族主義の語りが見落としてきた切実な声が宿っている。
李里花の第六章「『元祖韓流スター』裴亀子歌舞劇団 戦前の日本における大衆文化と朝鮮人女性のイメージ」は、近代日本が生み出した異国的女性像の政治性を明晰に描き出している。裴亀子は日本の舞台で人気を博したが、その背後には帝国の欲望が作り出した「見られる身体」の構造があった。彼女の成功は朝鮮人女性が「芸能」の領域に限ってのみ大衆に受け入れられるという条件のもとに成立していたのである。李里花は雑誌記事や劇評を分析しながら、そこに潜む視線の支配関係を読み解いてゆく。文化は国家による支配がもっともソフトに、そして悪辣に作動する場所である――この認識が本章の根底に流れている。
現代日本の排外主義は、いま述べた「帝国」の亡霊に操られていることを指摘しておかなければならない。K-POPや韓流ドラマを楽しみつつ、移動してきた隣人の声や暮らしを排除しようとする現代日本の状況は、かつて大日本帝国が朝鮮人女性をエキゾチックな他者として消費した構図の反復である。日本(人)のマジョリティにとって「境界を越える」とは他者の文化への単なる共感ではなく、自分が無意識のうちに持ってきた視線を、他者をかつて見下ろしていた視線を、自覚的に解体していく作業である。
第二章で取り上げられる金史良と李良枝の作品は、いずれも日本語の言語空間で生きざるをえなかった作家の苦悩と格闘の軌跡である。言語を選び取ることは作家たちにとって実存的決断につながることであった。日本語コリアン文学の存在は近代日本語の安定性にとって、その帝国言語の中にある歴史性、多様性、暴力性を常に可視化する批評的装置なのかもしれない。
誰が何を考え、何をなすにしても、絶えず国家が前提となる現代は「国家中毒」の時代だと言える。日本は言うに及ばず、韓国で芸術人福祉財団が在日コリアンルーツの韓国人芸術家に支援金返還を求めた件はその良い一例である。本書はそんな時代にあって、聞こえにくい声、届きにくい言葉、翻訳の回路に入りそこねた沈黙を拾い上げ、国家や制度のあいだに置き去りにされてきたものを、文化の場(マダン)へ呼び戻す書である。(執筆者:李里花・山口祐香・武藤優・米倉伸哉・城渚紗・FUNI・黄仙惠・吉田のえる)(さくらい・のぶひで=日本文学研究者・韓国語翻訳者)
★り・りか=中央大学教授・歴史社会学・移民研究・環太平洋地域研究。編著書に『アジア系アメリカを知るための53章』など。
書籍
| 書籍名 | 日韓スタディーズ |
| ISBN13 | 9784779518676 |
| ISBN10 | 4779518679 |
