- ジャンル:伝記・日記・手記
- 著者/編者: フランソワ・ケルソディ
- 評者: 前川一郎
チャーチル伝
フランソワ・ケルソディ著/君塚直隆解説
前川 一郎
読み応えのある伝記であった。700頁を超える大部を、まるで配信ドラマを一気見するかのように読んだ。
大嶋厚の訳がすばらしい。膨大な史料と証言をもとに稀有な一生を描き切る原著の筆致が、その勢いのまま届く名訳である。君塚直隆の解説も付く豪華な一冊だ。
本書を読んでいると、激動の二〇世紀史がチャーチル一人の英雄譚のように思えてくる。
内政から外政まであらゆる局面に首を突っ込み、戦争となると執念をみせる波乱万丈の生涯は、あますことなく網羅されている。第一次世界大戦で大臣職を辞し、西部戦線の塹壕で武器をとった軍人チャーチル。戦間期、対独融和と軍縮へと傾く英国政治に異を唱え、ナチスの脅威を叫び続けた孤高の闘士。そしてドイツの快進撃で敗北の危機に瀕し、首相としてダンケルク撤退を敢行し、バトル・オブ・ブリテンを耐え、ついには米国の支援を取り付けて反ファシズムの戦いを勝利に導いた偉大な戦争指導者。戦後は「赤い」独裁への警戒を強め、「英語同胞諸国」の団結に望みを託しながらも、米国との「特別な関係」を守るために「第二ヴァイオリン」の役割に甘んじた老練な政治家。
そんな英雄の足跡に、圧倒されない者がいるだろうか。
この大きな物語の前では、彼が犯した数々の失敗さえもかすんでみえてくる。むしろ失敗から学び、そこから最良の結果を導くことにおいて、チャーチルは天賦の才を有していたといえよう。
また、周知のように、チャーチルは驚異的なまでに多彩の人であった。著者曰く「我らが首相兼講演者兼戦略家兼城主兼画家兼農民兼歴史家兼政治家兼ジャーナリスト兼代議士兼名誉博士号(複数)保持者兼野党党首」(607頁)であり、絵画は玄人肌、著作は40冊を超え、ついにはノーベル文学賞受賞者である。
とはいえ、「何よりも恐るべき政治的動物」のチャーチルであった。その本質は、ヒトラー、そしてスターリンと、彼が独裁と断じた者には徹底抗戦を唱え、どんな苦境もユーモアでかわし、勝利を諦めない不屈の精神に宿る。独裁への嫌悪は、自由と民主主義を尊ぶ「英語諸国民」としての信念と、「抑圧された人びとに対する同情心」(322頁)に裏付けされていたと著者はいう。
もっとも、高評価は少し間引いて読む必要がある。チャーチルの「同情心」は、植民地全体にひとしく向けられていたわけではない。
たとえばアイルランドで悪名高い武装警察「ブラック・アンド・タンズ」の配備に関与したのは、植民相時代のチャーチルである。著者はこれを「テロとの戦い」と記すが、それでは独立闘争の歴史的文脈がみえにくくなる。
著者はまた、英国統治のおかげでインドで治安は保たれたともいうが、大西洋憲章の民族自決原則がインドには適用されないとチャーチルが言明した点は、注でわずかに触れるだけである。
帝国の外においても、チャーチルの「同情心」はしばしば便宜的であり、本書の筆致もまたそれに従っている。カティンの森の大虐殺事件に接して、犠牲者への同情よりも対独勝利を優先し、沈黙を守ったチャーチルについて、著者は本人の弁明を引くのみで、それ以上は深入りしない。
著者ケルソディは、ひとつの価値観でこの偉人を評価することはできないと結論する。自由と民主主義の防波堤となり、独裁と戦い続けたその生涯を描く物語は、勝者であり、白人であり、反ファシズムの志を共有する過去をもつ人びとにとっては、至高の英雄譚となろう。その生き様が人びとに勇気を与えてきたことも否定できない。
しかし、英雄が放つ光は、それを眺める場所によって色を変える。そう気づいたときはじめて、この壮大な物語は、二〇世紀史をどうみるかという、わたしたち自身の歴史観を問う鏡へと変わるはずである。(大嶋厚訳)(まえかわ・いちろう=大阪大学教授・ブリテン帝国史・歴史認識問題)
★フランソワ・ケルソディ=フランスの歴史家・外交史・軍事史。オクスフォード大学を経て、現在はソルボンヌ大学教授。チャーチルの『第2次大戦回顧録』新仏語訳を刊行してる。一九四八年生。
書籍
| 書籍名 | チャーチル伝 |
| ISBN13 | 9784867931257 |
| ISBN10 | 486793125X |
