2025/12/26号 14面

アイリッシュ・マニエリスム

アイリッシュ・マニエリスム 木原 誠著 河原 真也  アイルランドを中心とする島嶼部で独自に展開した「島のケルト」は、ガリアをはじめとするヨーロッパ大陸に広がった「大陸のケルト」とは異なる文化的系譜を形成してきたと言われる。本書はこうした「島のケルト」に固有の思考様式に着目し、初期修道院文化から現代文学に至る連続性を新たな視座で示す研究書である。従来の議論はアイルランドの孤立性や辺境性を強調しがちであったのに対し、本書は文化内部に潜む生成の原理に踏み込み、アイルランド文学をより広い文脈から再評価しようとする点に特色がある。その大胆な主張には議論の余地もあるが、読者に新たな視野を開く点で大きな刺激を与えてくれる。  著者はまず六世紀半ばに誕生した初期アイルランド修道院文化に焦点をあてる。西欧の極辺に位置する島々や河川の水辺に点在した修道院は、それぞれが独立した学問所でありながら、互いに有機的に結びつく共同体を形成していた。この多中心的かつ流動的な構造は、自然の摂理に従って集合・分岐を繰り返す粘菌群にたとえられ、個別性と全体性が重層的に重なり合う独特の知の生態系を呈していたとする。  本書が強調する「水辺の思考」という概念は、この文化の核心をなす。陸路中心の直線的な思考に対し、河川・湖・海路に沿う蛇行のリズムを持つ水辺の思考は、距離や時間の伸縮、反復、反転を内在させる生成的な思考様式である。『ケルズの書』の複雑な組紐文様に見られる絶えざる循環や反転構造は、この思考の視覚的表現であり、著者はそこに「眼」で「聴く」ような感性的体験、ひいては音楽的時間の美学が宿ると指摘する。  こうした文化的基盤の上で、著者は「アイリッシュ・マニエリスム」という独自の美学概念を提示する。一般のマニエリスムが均衡からの逸脱や技巧の誇張を意味するのに対し、アイルランド的マニエリスムは、「水辺の思考」に根ざした有機的・動的な生成過程そのものの可視化に重きを置く。形式の歪みが目的ではなく、むしろ作品内部の時間感覚や思考の動きをあぶり出す美学的な手がかりとなっており、この点が本書の議論をユニークにしている。  また本書は、修道院文化の社会的・宗教的背景として「アジール(逃れの街)」の理念を論の中心に据え、その意義を丁寧に論じている。アジールとは罪人や弱者を保護する聖域であり、アイルランドの修道院はこの理念を共有する自律的拠点として発展した。農地や工房を備え、聖と俗の境界に立つ空間を形成した修道院は、十八歳以上の男女に古典語・修辞学・音楽・自国文学まで幅広いリベラル・アーツを教授し、十二世紀以降の大学制度の原型となったとされる。  こうした修道院文化を体系化するうえで重要な役割を果たしたのが、聖コロンバである。本書は、彼が自然の水路と知の流れを統合する「水辺のネットワーク」を構想し、修道院間の知的交流を可能にした点を強調する。河川・湖・海路を結ぶこのネットワークは、権力中枢を持たない分散型の相互通行モデルであり、著者はこれを「中世のインターネット」と呼ぶ。巡礼僧たちは写本や自作文学作品を携え、小舟で修道院を往来し、智の伝播を担った。聖コロンバの思想と行動は、この知の循環モデルを推進するうえで欠かせない要素とされる。  文学作品の分析においては、W・B・イェイツ、J・M・シング、ジェイムズ・ジョイスを連続的に捉え、アイルランド文学に通底する思考の流れを浮かび上がらせる。著者はイェイツの大家としてこれまで数冊の研究書を世に送っているが、その象徴的体系を丁寧に読み解く複数の章は特に充実している。シングの『アラン島』についての分析においては、「水辺の思考」や「アジール」の概念が作品の精神地理を読み解く手がかりとなり、さらにイェイツとの相互連関的側面についても言及され、示唆に富む。  一方で、ジョイスについては『ダブリナーズ』の数編と『ユリシーズ』第一挿話に関する議論が示されているものの、関連する先行研究への位置づけがやや簡潔にとどまっているため、イェイツ的視点へと収斂しがちな印象も受ける。ただし、本書が提起する「ジョイス・コード」という概念を手がかりに、ジョイス作品の象徴的・言語的パターンを体系的に捉えようとする試みは、読者に新たな思考の展開を促す有意義な視座を与えている。  総じて本書は、「島のケルト」がしばしば孤立的・辺境的に捉えられてきた従来の見方を超え、アイルランド文化を「水辺のネットワーク」に支えられた、動きのある生成的な知の場として捉え直そうとする意欲的な研究である。「アジール」の理念や聖コロンバの構想を軸に、初期修道院文化と近代文学の流れをつなぎ直す本書は、アイルランド研究のみならず、文化・文学論の領域に新たな視野をもたらす。読み手にとって、学術的理解と想像力の双方を刺激する、豊かな思索の一冊となるかもしれない。(かわはら・しんや=西南学院大学教授・アイルランド文学)  ★きはら・まこと=佐賀大学教授・英米・英語圏文学。著書に『イェイツと夢』(日本キリスト教文学会賞)『煉獄のアイルランド』、共著に『愛のモチーフ イギリス文学の風景』など。一九六一年生。

書籍

書籍名 アイリッシュ・マニエリスム
ISBN13 9784867800843
ISBN10 4867800848