座下は難破船を導き寄せる灯台です
沢田 和彦著
和田 春樹
日露戦争の際、ロシアの陸海軍は、戦死者五万二五〇一人を出し、捕虜七万四三六九人を失った。この膨大な捕虜は個別の戦闘が終わるごとに、満州の戦場から日本の内地に輸送され、北は弘前から南は熊本まで、全国二九か所の捕虜収容所に収容された。ロシア語しか話さない捕虜たちの面倒をみて、慰安をあたえる役目を託されたのが、ロシア人ニコライ主教をトップにいただく日本ハリストス正教会の聖職者と信徒たちであった。日露戦争という困難な事態の中で教会と信徒をまもってきたニコライ主教は一九〇四年五月三一日に陸軍大臣により認可を受けた俘虜信仰慰問会を設立し、活動を開始した。
本書は、この活動の過程で、ニコライ主教に捕虜の将兵が書き送った書簡四〇九通を読み通して、ニコライ主教と捕虜の交渉を概観し、日本におけるロシア人捕虜の生活と気分、経験と観察を明らかにしようとした努力の書である。この資料はハリストス正教会のニコライ主教文書の中に所蔵されているもので、これまでは非公開であったものを著者沢田教授が閲覧し、翻刻、翻訳された。この作業は並大抵のものでない。
日露戦争のさいの日本抑留ロシア軍捕虜については、彼らに革命工作をおこなうために来日した元ナロードニキ革命家ニコライ・ラッセルの活動について評者和田が調べて、本に書いたことがある。ラッセルは正教会の慰問事業に入り込み、その事業を利用して、捕虜に働きかけをおこなったのであるが、半世紀前の私の研究では、捕虜の反応、反発、正教会側の反応などを調べることはできなかった。その点で本書は正教会の慰問活動の側から捕虜たちの精神状態を明らかにし、ラッセル工作の背景をあきらかにしてくれたと言える。
もちろん本書が主として明らかにしたのは捕虜生活の苦しみの中で魂の救いを正教会に、ニコライ主教に求めて、そこにすがりつく捕虜たちの心境であり、彼らを救うために心をくだくニコライ主教の姿である。本書の表題は、静岡収容所にいたラッヴァ少佐がニコライを仰いで書いた言葉からとられている。
本文は収容所毎にニコライに手紙を送った捕虜各個人毎にその手紙を紹介している。第一章は手紙がもっとも多かった静岡収容所を扱っている。将校一三人、下士官二人から送られた九六通の手紙が紹介されている。このうち少尉パンケーヴィチが日本の国民学校を訪問したが、その民主的な原理におどろいたと書いてきたのが注目される。本人はのちにニコライのもとを訪問もしたのだが、ニコライは、彼は大学出で、将校たちを誹謗していたと日記の中で反感をみせている。いま一人、ブルガーコフ二等大尉は、国内の飢饉のニュースを聞いた、募金を集めたので作家トルストイのところに転送してほしいという手紙をよこした。ニコライ主教は正教会から破門されたトルストイに強く反発していた。沢田氏は、ニコライはトルストイに送金しなかっただろうと推測している。このブルガーコフは捕虜中でラッセルの呼びかけに応えた最大の革命派であったので、彼の手紙がニコライにまじめに募金の転送を依頼したものであったとは考えにくい。ともあれ将校一一人がニコライ主教に救いを求める手紙を出したのに対して、二人はニコライの反感をよぶ手紙を書いているわけである。手紙を書かなかった将校はどんな気分であったのだろうか。
浜寺収容所は最大時二万二五〇〇人を収容した大収容所で、ラッセルの工作が集中したところであった。ここは兵卒、水兵、下士官ばかりが収容されていたので、当然ニコライのもとへ送られた四四通の手紙の差出人の中には将校、士官がいない。手紙の内容はすべて信仰心をあらわしている。沢田氏は手紙と無関係に、この収容所では捕虜中に保守、中立、革命の三派があり、一九〇五年一一月初め、先のブルガーコフら革命派の将校が来て、演説したあと、革命派と反対派の争闘があって、死者も出たと書き添えている。
京都、伏見の収容所には将校、士官が多く、ロジェストヴェンスキー艦隊司令官も収容されていたのだが、そこからの手紙はまったく紹介されていない。これら司令官級の捕虜からの手紙は別置保管され、失われたのであろうか。それとも彼らはニコライ主教に不信の目を向け、手紙を出す気持ちをもたなかったのだろうか。ここは謎である。(わだ・はるき=東京大学名誉教授・ロシア・ソ連史・現代朝鮮研究)
★さわだ・かずひこ=埼玉大学名誉教授・日露交流史。著書に『白系ロシア人と日本文化』『日露交流都市物語』など。
書籍
| 書籍名 | 座下は難破船を導き寄せる灯台です |
| ISBN13 | 9784865200812 |
| ISBN10 | 4865200819 |
