- ジャンル:哲学・思想・宗教
- 著者/編者: ノーム・チョムスキー、C・J・ボリクロニュー
- 評者: 松下和夫
生きうる未来は、いまなお可能か
ノーム・チョムスキー/C・J・ポリクロニュー著
松下 和夫
2026年の世界は、未曾有の不確実性に包まれている。気候変動、生物多様性の喪失、資源制約、地政学的対立、社会的分断、経済の不安定化――これらが相互に連鎖し、複合的危機(ポリクライシス)として顕在化している。ウクライナ、ガザ、イランなどでも深刻な軍事紛争が続く。
特に米国で再登場したトランプ政権は、第二次世界大戦後に構築された国際秩序を根底から揺るがし、気候変動対策や国際協調への逆風を強めている。また、アメリカ・イスラエルによるイラン攻撃を契機としたエネルギー危機は、日本のエネルギー安全保障の脆弱性をも改めて露呈させた。第二次トランプ政権による反気候政策は、世界の脱炭素化の潮流に深刻な逆風をもたらしている。パリ協定と気候変動枠組条約からの離脱、化石燃料増産の推進、環境規制の撤廃、気候科学の否定、国際協調の弱体化――これらは、世界の気候危機管理システムを根底から揺るがすものである。
ノーム・チョムスキーと政治経済学者C・J・ポリクロニューによる本書『生きうる未来は、いまなお可能か』は、第二次トランプ政権の発足以前に公刊されたものであり、2020年代半ばの世界が直面する複合危機を縦断的に分析している。それでいてあたかも現在の状況を先取りしたような透徹した考察が展開され、そのうえで人類が「生存可能な未来」を取り戻すための条件を問い直す重厚な対話集となっている。
気候危機、戦争、核リスク、AI技術の急速な進展、格差と不平等の拡大――これらが互いに絡み合い、世界秩序を根底から揺るがす状況を、チョムスキーは歴史的文脈と構造的分析を通じて鋭く描き出している。
本書の特徴は、単なる危機の羅列ではなく、それらを生み出す政治経済構造、特に米国中心の軍事覇権と新自由主義的政策の帰結を、長年の研究と膨大な資料に基づいて体系的に批判している点にある。ポリクロニューの問いかけは、チョムスキーの分析を引き出す触媒として機能し、読者は両者の対話を通じて複雑な問題群を段階的に理解できる。
■気候危機――「公正な移行」なくして未来はない
本書の冒頭を飾るのは、気候危機への警鐘である。チョムスキーは、地球が「居住不可能」になる未来が現実味を帯びていると指摘し、現行の政策対応がいかに不十分であるかを強調する。特に米国政府の歴史的な不作為は繰り返し批判され、化石燃料産業と政治権力の癒着が、気候対策を阻む構造的要因として描かれる。
同時に、彼は「公正な移行(Just Transition)」の重要性を説く。再生可能エネルギーへの転換は単なる技術的課題ではなく、社会的弱者を取り残さない制度改革とセットでなければならない。これは、気候危機を単なる環境問題ではなく、社会正義の問題として捉えるチョムスキーの一貫した姿勢を反映している。
■戦争と核リスク――外交の欠如が世界を危険に晒す
本書の中心的テーマの一つは、ロシア・ウクライナ戦争をはじめとする地政学的緊張である。チョムスキーは、NATOの拡大政策がロシアの反発を招き、危機を深刻化させたとする従来の分析を再確認しつつ、米国が外交的解決の道を狭めていると批判する。そして、軍事的勝利を追求する姿勢が核リスクを高め、世界全体を破滅の淵へと追いやる危険性を強調する。彼の主張は、冷戦期から一貫して核兵器廃絶を訴えてきた思想的基盤に根ざしている。
■民主主義の危機――ネオファシズムの台頭
本書で印象的なのは、米国政治の劣化に対するチョムスキーの深い危機感である。彼は、共和党が「階級格差を維持すること」を使命とする政党へと変質し、民主主義の基盤を掘り崩していると断じる。さらに、世界各地で台頭する権威主義的潮流を「ネオファシズム」と呼び、これが国際秩序を不安定化させていると警告する。チョムスキーは、メディアのプロパガンダ機能や情報操作の問題にも言及し、民主主義が形骸化する過程を鋭く分析する。
■AI技術と未来――神話と現実を見極める
AI技術の急速な発展について、チョムスキーは過度な楽観や恐怖を戒める。彼は、AIをめぐる神話的言説が社会的課題を覆い隠し、技術の本質的限界を見誤らせる危険性を指摘する。AIがもたらす効率化や利便性は否定しないものの、監視社会化や労働の不安定化など負の側面を直視し、民主的統制の必要性を強調する姿勢は、彼の長年のメディア批判・権力構造分析と連続している。
■「もうひとつの世界」は可能か――希望の根拠
本書のタイトルが示すように、チョムスキーは絶望的な現状を描きながらも、未来が完全に閉ざされているとは考えない。彼は、草の根運動、市民社会の力、国際協力の可能性を挙げ、「もうひとつの世界」は依然として実現可能だと述べる。
特に、気候変動対策における国際的な連帯や、若い世代の政治参加を希望の源泉として評価する。チョムスキーの楽観は、単なる感情的なものではなく、歴史的経験と社会運動の蓄積に基づく「合理的な楽観」である。
■危機の時代の「知の羅針盤」
本書は、現代世界の危機を俯瞰し、その根源を探り、未来への道筋を提示する知的対話の書である。気候危機、戦争、核リスク、AI、格差――これらを個別の問題としてではなく、構造的に結びついた「複合危機」として理解するための視座を提供している点で、本書は卓越している。
チョムスキーの指摘は時に厳しいが、その批判は単なる悲観ではなく、行動を促す倫理的な呼びかけでもある。彼は繰り返し「人類の運命は決まっていない――今、私たちが行動すれば」と述べ、未来を形づくる主体としての市民の役割を強調する。本書は、危機の時代を生きる私たちにとって、世界を読み解くための羅針盤であり、行動のためのひとつの思想的視座を与えてくれるのである。(本橋哲也訳)(まつした・かずお=京都大学名誉教授・(公財)地球環境戦略研究機関シニアフェロー)
★ノーム・チョムスキー=マサチューセッツ工科大学言語学哲学科名誉教授。
★C・J・ポリクロニュー=政治経済学者・政治学者。
書籍
| 書籍名 | 生きうる未来は、いまなお可能か |
| ISBN13 | 9784791777952 |
| ISBN10 | 4791777956 |
