2026/05/22号 6面

トラウマを聴く前に 知っておきたい10のこと

トラウマを聴く前に 知っておきたい10のこと ジョー・ヒーリー著 稲垣 智則  生きている「意味」とは何だろう。「ダブルバインド」で有名なベイトソンは、こう記している。「おはなし=ストーリーとは、関連relevanceという名で呼ばれるつながりの複合体である。(…中略…)関連する(be relevant)とは、AとBとが共に一つのストーリーを構成するということと同じである。人間はストーリーによってものを考えるのである」(『精神と自然 生きた世界の認識論』岩波文庫、34頁)。  私は、『MOTHER3』(任天堂、2006年)というゲームの中で、糸井重里が綴ったあるセリフを思い出していた。「ものがたりとは おもいでの つらなりです。おもいでと おもいでが おもいだしあって おもいでに なっていくのです。おもいでを のこしておかなければ わすれてしまうのです。だから カエルに それまでの おもいでを かたりかけてください・・・。それを ひとは セーブといいます」。  私たちは、生きている中で様々な出来事を通り過ぎる。それぞれの出来事を関連するものとして捉え、そこに自分が生きているという「意味」をストーリーとして織り上げている。  「私たちは、ハッキリ意識していなくても、世界、他者、自分自身について、三つの基本的な思いを抱く傾向があります。 ・私たちは傷つけられないという信念 ・この世界は意味があり、理解できるという感覚 ・自分たちと他者に対するポジティブな感覚 外傷的な死は、これらの基本的な前提を揺さぶったり打ち砕いたりします」(73頁)。  大災害や犯罪被害に遭うとき、それらの織り上げた「意味」としてのストーリーが打ち砕かれてしまう。目の前で、生きている「意味」が剝がれ落ちていく感覚。そのとき私たちは、生きている中での「コントロール」を失う。  「コントロール」という言葉は解釈が難しいが、本書の中では非常に重要な位置を占めている。たとえば、以下のような記述だ。「もし取材相手があなたにお茶を出してくれたなら、お茶をいただこう。(…中略…)家に記者や撮影担当者がいることにまだ慣れていないときに、価値あるコントロール感を取材相手に持ってもらうことができる」(53頁)。ほかにも、「だから私に『娘さんをどう呼べばよろしいですか』と聞いてくれるだけで、私が決められる余地がわずかにできるのです」(29頁)とも記される。  私たちは、お茶を淹れること、誰かの娘さんをどのように呼ぶのか、ということを「コントロール」という枠組みで考えているだろうか。しかし、これが世界を意味づける、非常に重要な観点なのだ。それを、本書は気づかせてくれる。  また、「『お気持ちはわかります』とは決して言わないように」(103頁)とも記され、「ある男性が、彼女が子どもを亡くした母親であることを知ると、自分も犬が死んだのであなたの気持ちはよくわかる、と話したのだ」(35頁)という例が示されている。カウンセリングの中でも、基本的に「わかる」という言葉は使用しない。苦しみは、その人独特のものだ。むしろ、永遠に「わかる」ことはないと思った方が良いのだろう。「わかる」の近似値を求めて、「理解しよう」とし続けることしかできない。そのために、相手に「語って」もらい、物語を紡いでもらう必要がある。それは「話してもらう」ことではない。インタビューとは、interとviewの合成語である。インタビューは、記者と取材相手の「あいだ」に立ち上がる。記者はすでに、取材相手の物語に参与している。  本書は、マスコミ関係者が、災害被害あるいは犯罪被害に遭った方に取材をする際の注意事項をまとめた実践書だ。しかし、教育関係者にとっても非常に重要な観点を提供してくれる。少なくとも教員は、いじめ被害にあった児童生徒に事実確認をする。家庭の事情で傷ついた児童生徒から話を聞く。そのとき、教師は、ある部分では取材をする記者と同様の位置をとることになる。  児童生徒が「コントロール」を回復しようとして、教師に対して行う気遣いを止めてしまっていないだろうか。迂闊に「わかるよ」と言っていないだろうか。事実だけを話させて、記録を完成させようとしていないだろうか。教師が、児童生徒の物語にすでに参与していることを忘れていないだろうか。意味が剝がれ落ちてしまった、あるいは剝がれ落ちそうになっているその虚無を、甘くみてないだろうか。  苦しみを負った人と接するとき、それはすでに、「意味」が剝がれ落ちそうになっている危機状態でもある。「意味」を織り直す必要がある。それは時間がかかる。教師は時間がない。しかし時間を短縮しようと焦ることは、結果的に対話を途絶させてしまうかもしれない。さらに傷つけてしまうこともある。それでは、永遠に「回復」には至らない。ならば、時間をかけることが、最速なのである。そのことに、本書は気づかせてくれる。(河原理子編訳)(いながき・とものり=東海大学資格教育センター准教授・教育心理学・臨床心理学)  ★ジョー・ヒーリー=英国のジャーナリスト。主にBBCテレビで長年取材するなかで、トラウマ取材のスキルの必要性を痛感し、トレーニングを立ち上げた。

書籍

書籍名 トラウマを聴く前に 知っておきたい10のこと
ISBN13 9784000617543
ISBN10 4000617540