ヘーゲル哲学と性
岡崎 佑香著
面 一也
本書は、最新の校訂版『ヘーゲル全集』に基づき、彼の哲学体系全体における性差とセクシュアリティを批判的に検討する。
まず自然哲学では、ベルリン期のヘーゲルは若きイェナ期と異なり、「経験的観察」に基づき男女の境界線を引くことに「批判的」だった。「経験の推理」は、「ひとが知っている限りにおいての「全て」であるにすぎず」、「完全なものではない」からである。
しかし論理学では、ヘーゲルは性差を経験でなく「「概念」による区別」として、男女の「性別二元論」と「異性愛規範」を保持し、これに対応する自然哲学で、「同性愛」を含む「非生殖的なセクシュアリティ」を「病気」とした。
さらに精神哲学では(「悪名高い性差の規定」で知られる『法哲学綱要』と講義筆記録を含む)、ヘーゲルは自然的性差でなく、「近代的な家族制度」に基づき「女性の使命」を規定した。彼はその際に、女性を「国家や学問などの普遍的な領域から排除」し、女性の使命を「妻としての家族的恭順に限定」する。夫が普遍的領域で働き続けるには、「妻による精神的、肉体的、性的なケアが不可欠」で、ヘーゲルは妻の使命のうちに、夫の「賤民化を阻止」する「安全弁あるいは抑圧の捌け口としての機能を看取していた」。ヘーゲルはまた「性交渉を婚姻締結の帰結」とし、「婚姻内出生子に限り子供の教育の権利を擁護した」。
最後に著者は補節で、妻の安全弁が現代の「家事労働に賃金を」運動の「最も革新的な論点」に当たるとし、「ヘーゲルとともに」この論点を剔抉しつつ、女性のセクシュアリティの「搾取や収奪」に「下支え」された市民(男性)の「自立性と誇りの感情という原理」を、「ヘーゲルに抗して」「廃絶」するとき、「愛やセクシュアリティは新たな仕方で構想される」と結ぶ。
校訂版『全集』で初めて全貌が知られた自然哲学の講義筆記録を精査し、「従来の解釈と違って」イェナ期との区別を究明したこと、先行研究の多くで論及が「ほとんどなかった」論理学を射程に収めたこと、先行研究で関連づけられることが「管見の限りこれまでに一つもなかった」妻の使命と夫の賤民化を主題化したことなど、本書の学術的貢献は大きい。それだけに、気になった点を二つ指摘しておきたい。
著者は、普遍的領域からの女性の排除について、「女性は哲学に向かない」とのヘーゲルの発言に「的を絞って」批判する。著者はその発言を、「経験の推理」による「経験的な全称命題」と捉える。哲学をめぐって、男女の違いを「経験は示している」、「女性はまだ何一つ成し遂げていない」とヘーゲルは言うから、確かに発言は「完全なものではない」経験的命題であるが、それは全称命題なのか。例外を認めない同命題は、「ひとつの反証例が提示されさえすれば」論駁される。著者は「ドロテア・レポリン・エアクスレーベン」を反証例に挙げ、発言を批判する。しかし、ヘーゲル自身が「ラーエル・レヴィン・ファーンハーゲン」を「女性哲学者」として「遇していた」「事実」は、それこそ反証例であり全称命題と矛盾する。発言は同命題と似て非なる、当時の経験則や一般論の類いではないか。それらは複数の反証例があっても成立する。この場合、著者の批判は不成立になる。
著者は補節で、それまでの「内在的」なテクスト読解から一転して、「現代のフェミニズムの視点」から「ヘーゲル哲学の限界やそのアクチュアリティ」を論じる。とはいえ、そこで引用されるフェミニストたちの言葉は補節以前にも割合に登場するから、いわば論点を借り受けた、〝フェミニズムとともに、ヘーゲルに抗する〟外在的解釈の印象が漂う。むしろ、ベルリン期の自然哲学における男女の「連続性」を軸とした場合、論理学の性差論はいかに書き換えられうるか、その新たな性差論によって法哲学の家族論や市民論はいかに乗り越えられうるか、といった問いを探究したうえでフェミニズムに言及すれば、より内在性と独創性をもつ批判的研究になったのではないか。ベルリン期のヘーゲルが、『法哲学綱要』(一八二一年)から「さらに先へ進んで」、第二版『エンチュクロペディ』(一八二七年)で「女性は政治や学問に向いていないとする信念をもはや明示的には維持していないという可能性」をもつため、なおのことに思える。(おもて・かずや=立教大学講師・政治思想)
★おかざき・ゆか=立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員(日本学術振興会特別研究員PD。博士(文学)。
書籍
| 書籍名 | ヘーゲル哲学と性 |
| ISBN13 | 9784409031476 |
| ISBN10 | 4409031473 |
