2025/02/21号 4面

ラトランド、お前は誰だ?

ラトランド、お前は誰だ? ロナルド・ドラブキン著 川成 洋  一九四一年一二月八日(日本時間)、日本海軍機動艦隊の奇襲作戦によるハワイの真珠湾攻撃。日米開戦の四ヵ月前、ユーゴスラヴィア人弁護士のダスコ・ボボフは、日本海軍が真珠湾を密かに偵察しているという、英国内務省保安部(MI5)の極秘情報を伝えるためにFBIのフーバー長官に緊急に面会を求めた。しかし、フーバーはボボフの顔を一瞥するだけで、椅子から腰を上げて握手を求めようとはせずに、即座に彼を追い出したのだった。真珠湾攻撃の数日後、フーバー長官は、真珠湾攻撃を許した責任者はハワイの初代最高指揮官キンメル海軍大将とショート陸軍中将であるとルーズベルト大統領に告発。はたせるかな、二人の将官は解任、および降格処分の憂き目を見る。  ところで、フーバーの死(一九七二年)後、FBIの秘匿人物ファイルが解除され、その中に、真珠湾攻撃に関与した日本のスパイ容疑者がいた。「エージェント・シンカワ」という諜報員。すでに米海軍情報局(ONI)も彼を追跡していた。彼はフレデリック・ラトランドという英国人だった。当然、MI5および海外秘密情報部(MI6)、英国海軍情報部(NID)も厳密に調査・追求し、大戦前にナチスの極秘電波「エニグマ(謎)」を解読した政府暗号学校(GC&CS)が的確に通信傍受していた。  それにしても、日・米・英の三ヵ国で暗躍したとされるラトランドとはいかなる人物だったのか。  ラトランドは、一八八七年、ウェイマスで貧しい労働者の息子として生まれ、一四歳で少年兵として海軍に入隊する。一九一六年、第一次大戦のユトランド沖海戦で操縦した複葉機で敵艦隊の位置の特定、戦艦から荒海に落下した重傷兵の人命救助などの軍功で「ユトランドのラトランド」と「戦争英雄」という呼称を頂戴し、都合三個の勲章を授かり、大尉に昇進。その後航行中の艦船甲板への初着艦、空母の着艦訓練の指導などで、少佐に昇進。英国空軍(RAF)が創設された一八年、少佐としてRAFに転属する。しかし、RAFの上官たちは陸軍航空隊出身か大学卒であり、海軍での功績など全く無視された彼はRAFの除隊を決意する。  二二年末、ロンドンの日本海軍駐在事務所で、空母の最新技術に最も精通した体験談を披露する。RAFの除隊が許され、日本で軍以外の分野で働くことを条件として、二四年、彼の一家は来日。三菱で航空機の技術アドバイザーに納まったが、秘かに航空母艦「鳳翔」の甲板上での発艦と着艦の訓練を指導し、航空母艦主唱者の山本五十六少将と邂逅できた。真珠湾攻撃の主力空母となった「赤城」、「加賀」の改修に着手したのだった。やがて契約期間が終わり、ロンドンで義兄の会社で働き、貿易業や株のブローカー会社を設立した。三二年、日本海軍からアメリカ経由で再来日を要請され、家族をロサンゼルスにとどめ、彼ひとり横浜に向かう。海軍省の正式な契約で、今までの米国での自称「マンレー」を止めて、コードネーム「エージェント・シンカワ」を使うことになる。一家でロサンゼルスに定住し、西海岸全域の米海軍基地を監視するよう要請される。それを了解した彼が要求する給与は、頗る高額で、日本の提督の約一〇倍に相当する。さらにロンドンで設立した副業にも多額な補助金が提供され、彼はロサンゼルスのビバリーヒルズに建つプール付きの豪邸を購入できた。地元の名士や軍の高官を招いてパーティを開き、会員制の俳優クラブ、英国退役軍人クラブなどの会員となる。ロサンゼルスのセレブの中で裕福な英国人ビジネスマンを装い情報を獲得するためであったのだ。  当時、米国の極東戦略を探るために、対米情報戦を展開していた日本海軍軍令部第三部第五課の定員は平時の編成というべきか、一〇人足らずであり、米国西海岸に一八人の海軍士官を潜入させていたのだった。ところで、ソ連を仮想敵国とする陸軍は本格的な諜報将校を育成するための「陸軍中野学校」を一九三九年に始動させていた。海軍にはそうした養成機関は一切存在せず、米国に派遣された海軍士官は悉く素人諜報員であった。  ラトランドは日本が米国の西海岸に戦争を仕掛けるなど、自殺行為になると周囲の日本人士官たちに忠告する。四〇年早々、大統領令によって太平洋艦隊の母港を真珠湾に移す。これで日本海軍の攻撃目標が決定する。当然、真珠湾の防衛力に関する調査を依頼される。  日米開戦の二日後の一二月一〇日、英領マレー半島制圧を目論む日本海軍航空隊によって英国が世界に誇る大型戦艦プリンス・オブ・ウェールズ(「皇太子」という名前である)、巡洋戦艦レパルスの二隻が撃沈される。地下室の首相執務室にいたチャーチルがその国家的な悲報を聞いて男泣きに泣き、そして側近に執務室近くの廊下に誰か人がいたかどうか確認したといわれている。  こうしてみると、ラトランドは世界一の海軍国のエースパイロットとして真珠湾攻撃およびマレー半島沖攻撃に参戦する日本海軍を指導したことは確かだったろうが、米国において日本海軍のスパイとしては如何なものだろうか。  日本海軍軍令部であれ、フーバ―長官であれ、日米双方の情報戦の不可抗力的なミスが、われわれにとって不可解な真珠湾攻撃の勃発を導いた一つの要因と言えるかもしれない。(辻元よしふみ訳)(かわなり・よう=法政大学名誉教授・英文学)  ★ロナルド・ドラブキン=アメリカの作家、企業家、エンジェル投資家。

書籍

書籍名 ラトランド、お前は誰だ?
ISBN13 9784309229416
ISBN10 4309229417