夜明けのハントレス
河﨑 秋子著
太田 靖久
その年の世相を表す〈今年の漢字〉として、二〇二五年は「熊」が選ばれた。各地で熊が頻繁に出没しただけでなく、生活圏での被害が多く出たことが理由であり、人々の心配がそれだけ大きかったともいえるだろう。
そのように耳目を集めている熊と、それを狙い撃つことになるハントレス(女性ハンター)が本作の軸だ。本書の帯には「令和の狩猟エンタメ!」の煽りと、「命を撃つ。その意味を、私は摑みたい。」とある。
著者の河﨑秋子氏は狩猟をテーマにした『ともぐい』(二〇二三年十一月刊行/新潮社)で第百七〇回直木賞を受賞した。熊を繰り返しモチーフに据えていることから、氏にとっても関心が高いことがうかがえる。ただし、両作は時代や主人公の特性など、様々な差異がある。文章表記において『ともぐい』は「熊」と漢字だが、本作では「クマ」とカタカナだ。作風の色味に則した細やかな使い分けであり、小説的工夫の一つといえるだろう。
本作の主人公の大学生「岸谷万智」は、両親と弟と一緒に札幌で暮らしている。かつて陸上競技やトレイルランを経験していた彼女は、偶然手にした雑誌から狩猟に興味を持つ。「実家太くてビジュ良くて趣味がハンティングって何者」と他者に揶揄されたりもするが、「家族がまっとう」で「フィジカルもメンタルも安定している」と自認しており、アウトドア用品の販売会社に無事就職するなど、環境にも恵まれているといえる。
そんな何不自由なく見える主人公が恋人や友人と潔く距離をとった後、山に向かう。その真っすぐな行動力が彼女の性格を表しているし、余計なノイズで読者の気を散らさない構造にもなっている。読者は「何も知らない女子大生」の目線を借りながら、銃砲所持許可や狩猟免許のことを知り、銃を手に山に入って、先輩ハンターたちから心得を授かり、獣の解体の仕方や肉の食し方の知識を得る。そこで出会うのは獣たちだけでなく、クマを撃つことに執着するハンターや、「ゆるハンター」なる自分勝手な動画配信者もいて、山に集う人々のそれぞれの思惑に触れていく。
主人公は彼らの言動に振り回されることもあるが、「考えすぎて害悪なこともある」と実感しているため、体を動かしたり料理をしたりして、具体的な行為を頼りにしながら心身を調整する。他者との関係性にだけ重きを置くのではなく、一人きりの作業によって自己の輪郭を形成していく。そういった動きの中、彼女が息を吸ったり吐いたりする姿が執拗に描かれる。自らの実存を確認する儀式のようである一方、命について思考を巡らせ続ける彼女の感情表現の豊かなバリエーションでもある。
本書表紙のイラストの主人公は、空を仰ぎながらわずかに口を開けている。自らの呼吸に集中することは、狩猟する上で最も重要なのだろう。『ともぐい』の冒頭は「鼻から息を吸いこむ」であり、本作は「息をするな、とは言われなかった」である。どちらも「息」からはじまっている点が同じだ。獲物を仕留めるとは、銃で相手の「息」の根を止めることであり、当然ながら「息」の有無こそが、生と死を分ける境界線でもある。
人を襲ったクマを追いかける主人公は自らの「息」を「煩わしい」と思い、「野蛮さを得た」と知覚したことで、クマを仕留めることができたのかもしれない。「息」の概念から逃れ、手放した時、人間とクマという属性が剝がれ落ち、生死を超越した場所で個と個がただむき出しになって対峙したといえるだろう。
主人公がクマを撃ったことで親離れの予感が生じるのは必定だ。緊張感のある日々を経て、自分と向き合った結果である。
主人公は精神の自立を意識したことで、誰かに教わるだけではなく、教える側にも回る。先人から受け継いだ知恵や経験を次へとつなげていく様は、呼吸をするような自然な流れであり、人間たちの営為そのものといえる。本作は狩猟という生々しく原始的な素材を扱いつつ、生きることやその連鎖を力強く描いた普遍的な物語だ。(おおた・やすひさ=小説家)
★かわさき・あきこ=作家。著書に『肉弾』(大藪春彦賞)『土に贖う』(新田次郎文学賞)『ともぐい』(直木賞)など。一九七九年生。
書籍
| 書籍名 | 夜明けのハントレス |
| ISBN13 | 9784163920702 |
| ISBN10 | 4163920706 |
