なでし子を夜半の嵐にた折られて
田中 伸尚著
山泉 進
タイトルだけからは分かりにくいが、副題に「「甘粕事件」記憶の再生」とあるように、本書は一九二三年九月一日の関東大震災の直後に起こった大杉栄・伊藤野枝・橘宗一暴行殺人事件をテーマとしている。大杉栄や伊藤野枝、あるいは殺人実行者である甘粕正彦に焦点をあてて、この殺害事件について論じた本は少なからずあるが、本書は、わずか六歳で殺された橘宗一少年とその両親に焦点をあてて、本格的に事件を論じた初めての本である。そして、その切り口の新しさによって「甘粕事件」の新しい断面を新鮮に示してくれている。まさしく「記憶の再生」にふさわしい充実した内容である。
その記述の難しさは、宗一少年と両親についての資料の乏しさにある。著者は、残された家族写真を有効に使いながら、また遺族たちの証言と当時の新聞記事を丹念に読み解いて、少年と両親の誕生から死までを完全に埋め合わせている。それは、取材と調査を重ねて断片を寄せ集めて、人間についての鋭い洞察力と読ませる文章力でもってつなぎ合わせた円熟した名人芸といえる。そのことは、巻末に付されている多くの「参考・参照文献」が証明している。
宗一少年の両親は大杉あやめと橘惣三郎である。大杉あやめは、一九〇〇年に大杉栄の末の妹として生まれ、二歳で母を九歳で父をなくした。父を亡くして初めて兄・栄のことを知った。一五歳で惣三郎と結婚し渡米。惣三郎はアメリカ・ポートランドで料理人をしていた。一九一七年四月に宗一が生まれている。肺疾患治療のため一九二三年六月宗一を連れて二度目の帰国したときに関東大震災に遭遇し、宗一を殺された。長男であった栄没後の八名の弟・妹たちの生活、また宗一と同年生まれの長女・魔子を筆頭とする五人の子供たちの人生、栄の孫にあたる大杉豊さんは、「大杉栄と一族の〈大変〉」という文章にさりげなく書いているが、その〈大変〉な出来事の一つとして、宗一亡き後のあやめと惣三郎のそれぞれの人生があった。あやめは惣三郎と離婚し、さらには惣三郎によるあやめに対する刃傷事件にまで至っている。あやめは大杉栄の若き同志であった近藤憲二と同棲し、アナキストとしての道を歩き始めるが、わずか二八歳で亡くなっている。
他方、惣三郎は、一九二七年四月、宗一の満一〇歳の誕生日を期して、名古屋の日泰寺に宗一の墓碑を建立している。墓碑の表面には、前半部分が本書のタイトルになった歌、「なでしこを/夜半の嵐に/た折られて/あやめもわかぬ/ものとなりけり」が刻まれ、裏面には有名な「犬共ニ虐殺サル」云々の文言を刻んだ。著者は、この墓碑の建立と文言の由来について新しい見解を提示している。
以下、二つの点に言及しておきたい。一つは「甘粕事件」という呼称についてである。大杉栄・伊藤野枝・橘宗一の殺害事件を「甘粕事件」と呼ぶことは事件直後から使われ、一九三一年版の平凡社の『大百科事典』でも、この項目が立てられ、三人の遺体受け渡しに立ち会った安成二郎が執筆している。しかし、一九七六年に三名の「死因鑑定書」が発見され、憲兵隊による暴行殺人であったことが明らかになった現在において、私は事件を「甘粕事件」と呼ぶことに多少の違和感がある。実行犯である甘粕正彦の名前に事件を還元することによって、おそらく軍部の上層部が関与した「国家犯罪」の本質を覆い隠すことになりはしないか。そういう懸念である。
もう一つは、「記憶の再生」についてである。「プロローグ」において、著者は「過去は終わりではなく未完」であると説き、「表現されることで未完の過去は動き出し、新しい物語となって人びとに記憶されてゆく」と述べている。そして、宗一墓碑の保存・改修の発起人となった近藤真柄(堺利彦の娘)の、「この事件を再びくり返してはいけない」という言葉で補っている。
「記憶の再生」は、墓碑保存や記念碑の建立、追悼集会、出版活動などによって、事件を風化させることなく継続させていくことを意味している。その点について「エピローグ」で言及されている。しかし、果たして「記憶の再生」はどこに向かっていくのか。あるいはその目的はどこにあるのか。大杉栄・伊藤野枝・橘宗一らは戒厳令下のもとで軍部によって殺され、軍法会議は殺害正当化のために設置された。しかし、無残に殺された三人、あるいは「朝鮮人」や「主義者」たちを含めて、この人たちの救済はどのようになされなければならないのか。答えはまだ先にあるように思える。(やまいずみ・すすむ=明治大学名誉教授・「大逆事件の真実をあきらかにする会」事務局長)
★たなか・のぶまさ=ノンフィクション作家。著書に『大逆事件 死と生の群像』(第59回日本エッセイスト・クラブ賞)など。一九四一年生。
書籍
| 書籍名 | なでし子を夜半の嵐にた折られて |
| ISBN13 | 9784877145071 |
| ISBN10 | 4877145079 |
