2026/05/29号 3面

心の帝国

心の帝国 ロバート・ギルデイ著 前川 一郎  本書は、近代英仏植民地帝国の歴史書である。その過去が現代の政治や社会にどのような影を落としているのかを問う。  著者ギルデイは、フランス近代史を専攻するイギリスの歴史家。もともとわかりやすい英文の原著が、翻訳でさらに読みやすくなった。  見開き頁の左辺に豊富な訳注を配する工夫もあり、平易な日本語とあいまって、広大なスケールのグローバルヒストリーが無理なく伝わるつくりになっている。美しい装丁も印象的だ。  幅広い読者層を想定して、この本がいかにていねいに作られたのかがわかる。二人の翻訳者をはじめ、本書刊行に尽力されたすべての関係者に、心から敬意を表したい。  全一〇章、さらに序章と結論とからなる。  内容を詳細に紹介する紙幅はないが、一九世紀後半から現在にいたる帝国の盛衰を、国内への影響に多くの頁を割きながら、二一世紀にまで及んで講じる点が目を引く。  読者は、三五六頁からなる英仏植民地帝国史をつうじて、両国の「いま、ここ」を強く意識し、激動の現代史に思いを馳せることになる。  通時的な章立てと、語られるエピソードは、必ずしも目新しくはない。 だが、導かれる考察は鋭い。読者によっては「反帝国主義」に過ぎると感じるかもしれない。  ひとことでいえば、植民地帝国の偉大さや誇りなどというものは、どうみても所詮は「神話」に過ぎない、というものだ。曰く、「帝国を正統化するための神話が展開された。つまり帝国は、富、秩序、あるいは文明をもたらす善のための力として提示されたのである。しかし、結局のところ、帝国の支配は暴力の上に成り立っており、その維持を可能にしたのは力であった」(二〇頁)。  帝国史の本質は暴力や収奪というその「負の側面」にあり、「帝国にも良い面があった」などと今も昔も繰り返される言説は「幻想」であり、控えめにいっても支配の側に与する者たちの「心」のなかに(善意からであれ、戦略的にあれ)抱かれた観念であって、さしずめ「心の帝国」だ、というわけである。  これがかつてのマルクス主義的/従属論的植民地主義批判かなにかと受け止められるとすれば、それはいささか拙速に過ぎる誤読であろう。  また、単純な二項対立を脱構築する「新しい帝国史」に乗り遅れた「古い帝国史」だと切り捨てるのも誤りである。  訳者も示唆するように、帝国ノスタルジアに憑りつかれたかのような現代政治――軌を一にして今日の歴史学と教育に浸透する帝国免罪論の動きと共に――に対する強烈な問題意識に駆られ、歴史学者として「現在と過去の対話」を試みた重厚な学術書である。  別言すれば、本書は、帝国の政治経済史であると同時に、自国の「こちら側」と帝国の「向こう側」をつなぐ記憶と感情の社会史でもある。「古い帝国史」と「新しい帝国史」を架橋する、堅実な歴史書である。  それにしても、この「心の帝国」、もっといえば帝国ノスタルジアなるものは、いったいどこから来るのだろうか。  現実に存在しないからこそ憧憬するのだとして、国家盛衰の黄昏時にそうした心情が強まることは容易に想像がつく。  しかし、著者が主張するのは、帝国が富、秩序、文明を世界にもたらしたという「想定」自体が、そもそも支配者側の勝手な思い込みに過ぎなかったということだ。  ここで、この大きな論点を十分に検討する余裕はないが、要するにこれは、現実の暴力や収奪をまるでなかったことのように忘却の彼方に追いやり、英語でいう「ロージー(バラ色)」物語で過去に思いを馳せる振る舞いである。  研究者が近年指摘する「帝国的健忘(インペリアル・アムネシア)」の作用であるといえよう。  ノスタルジアとアムネシアは表裏一体だ。著者は明示的にこの語を用いていないが、「負の側面」の棚上げが「心の帝国」を生み出す回路であることは、第五章「逆からの脱植民地化」からも読み取ることができる。  「逆から」とは、第二次世界大戦後、旧植民地から移民が本国へ「逆流入」したことを指す。ここにイギリスの労働者は自分たちの生活が脅かされる不安を抱き、被害者意識を装いながら、人種的優越感に基づく狭隘な排外主義に走った。  白人労働者らは、旧植民地からの移民がなぜイギリスにいるのかと憤慨する。だがそれは、もとはといえばイギリスがかれらの土地を植民地化した歴史的帰結ではないか、という考えには及ばない。  そんな単純な事実を忘れて、人種差別と暴力の応酬に直面する現代イギリスの苦悩――アルジェリア移民に敵意を抱くフランス社会の不穏も同様に――は、木畑洋一がかつて指摘した「支配の代償」の最たる例の一つであるといえよう。  「心の帝国」とは裏腹に、現実の帝国で起きていたのは、暴力と収奪が人間の尊厳を奪う日常だった。植民地主義、新植民地主義、新帝国主義。いずれも旧宗主国の側がきちんと向き合ってこなかった歴史である。  現実をまともに受け入れられないのだから、それは苦しいであろう。  「しかしかつての植民地支配者たちの苦悩など、本国で生活し、働きに来た旧植民地の諸民族が被った苦悩と比べると、ほとんど重みを持たない」(二八七頁)、と著者は断じる。  そしてこれが、「植民地帝国の過去と現在」を問う本書の最後に下された結論でもある。  忘却に抗い、わたしたちの内なる「帝国」を解体する痛みを伴う対話は、これからどうなっていくだろうか。  かつて同じような「心の帝国」を有したかもしれない日本にいる読者の一人として、本書を吟味し、よく考えてみたい。(池田亮・和田萌訳)(まえかわ・いちろう=大阪大学教授・イギリス帝国史・植民地主義)  ★ロバート・ギルデイ=オクスフォード大学ウスターカレッジ現代史教授。専門は一九世紀から二〇世紀のフランスとヨーロッパの歴史。

書籍

書籍名 心の帝国
ISBN13 9784409511046
ISBN10 4409511041