2026/08/21号 4面

知性はバイアスでできている

知性はバイアスでできている サミュエル・ガーシュマン著 山田 祐樹  我々はなぜこれほど賢く、同時に愚かなのか。過去半世紀の心理学は、もっぱら人間の不合理さを示すことに熱心であった。本書はその流れに抗い、この問いを2つの原理で説明しようとする。それは、限られたデータから学ぶために観察前から仮説を絞り込む帰納バイアスと、限られた時間と計算で間に合わせるために近道をする近似バイアスである。どちらも世界を生き抜くための工夫であり、誤りの源でもある。だからこそ知性は必ず誤る。錯視は、曖昧な網膜像から世界を推論する際の副産物として説明され、確証バイアスや反証への頑固さは、自分の理論を守る合理的な振る舞いとされる。過剰なパターン化も、選好の移ろいやすさも、言語の曖昧さや行動のランダムさも、同じ枠組みで合理性の現れへと読み替えられる。情報理論を使えば、知覚の法則から経済学の価値関数までが一本に連なる。賢さと愚かさは表裏一体だというのが本書の見立てである。同じ叢書で対をなすチェイター『心はこうして創られる』と併せ読むと、本書の狙いがよく見える。  著者自身にも少し触れておきたい。ガーシュマンは、テネンバウムやダヤンに連なるベイズ派・強化学習の認知科学を担う一人である。その研究室の仕事には、一見不合理な認知を、計算資源の制約や環境の構造を勘案すれば実は合理的な適応であると説明するものが多い。本書はその数百編の凝縮であって、単に傍観者が外から眺めているようなものではない。  ここで本書を、別の角度から見てみる。本書が描く「合理的だが可謬なベイズ主体」は、ほかならぬ著者自身にも当てはまるのである。ガーシュマンは「人間は合理的だ」という中心仮説に強い事前信念を置き、その上に自らの研究を築いてきた。本来なら反例になりそうな不合理な現象に出会うたび、特定の事前分布や資源制約を補助仮説として置き、それを逆に合理性の証拠へと変換する。反証を確証に裏返すこのやり方は、第6章「絶対に論破されない方法」が解剖してみせた論法そのものである。そこではどんな逸脱も帰納バイアスか近似バイアスのどちらかに帰せて、反証になるものは消えてゆく。つまり本書は、自らの主張を著者その人において体現しているのである。人間観がそれを唱える当人まで言い当てるのは見事だが、著者の推論さえ説明できるほど広い見立ては、それだけ反証から遠い。同じロジックが長所にも短所にも読めるというのは、同じ現象が立場しだいで合理にも非合理にも見えるという第1章の指摘が、本書自身に跳ね返ってきた形である。  驚くのは、著者がこれを自覚していることである。冒頭で自身の試みが辻褄合わせの寄せ集めになりかねないことを警戒し、第6章では「網羅的研究はまだなされていない」と認め、第12章では「ベイズとの整合性は集団による平均の作り物にすぎない」と書く。ちなみに、個人は即興でサンプルを引き、集団の平均だけがベイズに見えるというこの話は、「心は即興する」と説くチェイターにも重なる。  評者も例外ではない。私もまた事前信念を抱えて本書を開いた。普段から、すべてを説明できるような理論には強く警戒し、それは確かめられた話なのか、あとから辻褄を合わせただけではないかと疑う。だから私は、何でも合理的に説明できてしまうのに、それ自体は確かめられていないという本書ももちろん警戒した。第5章の肯定テスト戦略の説明は、本書自身に再帰するのではないかと感じた。著者が「ベイズ的モデルもきちんと反証できる」と言えば、それも表層的な弁明だと看做し、自分の批判の裏づけになると考えてしまった。なんのことはない。私も勝手に補助仮説を立てて、都合の悪い証拠を切り捨てていたわけである。つまりこの書評それ自体が、本書の説く信念更新のもう一つの標本である。誰も外側には立てない。だがそれは、きっと浅薄や欠陥などではない。「完全なる知」ではないからこそ、それが知性なのだ。(高橋達二・長谷川珈訳)(やまだ・ゆうき=九州大学准教授・認知心理学)  ★サミュエル・ガーシュマン=アメリカの心理学者・神経科学者。マサチューセッツ工科大学の脳・認知科学科での博士研究員を経て、現在ハーバード大学審理学部教授。計算論的認知神経科学を専門とし、学習・記憶・意思決定などに関心。一九八五年生。

書籍

書籍名 知性はバイアスでできている
ISBN13 9784065372210
ISBN10 4065372216