- ジャンル:歴史
- 著者/編者: デイヴィッド・ヒューム
- 評者: 岡村太郎
ヒューム イングランド史 Ⅰ・Ⅱ
デイヴィッド・ヒューム著
岡村 太郎
ステュアート史を叙述する『イングランド史』第Ⅰ巻・第Ⅱ巻はきわめて大部の書であり、このような著作を長年にわたる作業の末に完訳し、あわせて詳細な解説を付した訳者諸氏の労に、まずもって深い敬意を表したい。ヒュームの『イングランド史』は、日本語でのアクセスがこれまで困難であったのみならず、英語圏のヒューム研究においても、必ずしも十分に精読・活用されてきたとは言いがたい著作である。その意味で、本書によって、日本語訳と周到な訳注、さらには体系的な解説とともに本書へ接近できるようになったことは、日本におけるヒューム研究のみならず、近世イギリス史、西洋近世哲学研究にとっても大きな意義を有する。訳文の日本語は全体として平明で読みやすく、各章冒頭には訳者による要約が付されているため、全体の流れを把握しつつ詳細な叙述へと進むことが可能となっている。加えて解説では、版ごとの差異やヒュームが依拠したと考えられる歴史的リソース、それらをヒュームがいかなる仕方で利用したか(場合によっては逐語的な転用を含めて)に至るまでが丁寧に跡づけられており、『イングランド史』という著作そのものと、その著者ヒュームの歴史叙述の方法とを、複層的に理解するための重要な手がかりが与えられている。
著作の内容に関してまず評者が抱いた感想は、その読書体験の豊かさである。その魅力は主として二つの側面に由来すると思われる。第一に、ヒュームの叙述は、国制を二分する大規模な党派対立や国際関係といったマクロな政治史的叙述と、特定の場面や人物のローカルな状況、さらには個々人の心理的動機にまで踏み込むミクロな描写とを巧みに往還する構成をとっている。たとえば、財産の流入によって庶民院が政治的に自立性を強めていくという社会構造の変化が描き出される一方で、追っ手から逃れる王が「葉っぱと枝で体を覆って」(576)木の上に身を潜める様子が生々しく叙述される。こうした叙述のスケールの切り替えは、出来事の構造的理解と具体的な臨場感とを同時に与え、読者を飽きさせることなく読み進めさせる効果をもっているのではないだろうか。
第二に、ヒュームは歴史的出来事の説明において複合的な要因を列挙しつつ、そのいずれか一つを決定的原因として特権化することを慎重に回避している。チャールズ一世の優柔不断さ、宗教的熱狂、スコットランドの不満などが王政崩壊の諸要因として併置されるのみならず、バッキンガム公殺害事件においても、フェルトン個人の性格的傾向や自身のキャリアの不遇、国民的怨嗟、宗教的狂信といった異質な契機が複合的に絡み合うことによって事件が生起したものとして描かれる。個々の性格特性や社会的状況、人間の心理傾向といった要素は、それぞれ単独では決定的な結果をもたらさなかったであろうにもかかわらず、それらが重なり合うことで大きな歴史的転回を生み出す。このようなナラティヴに富んだ叙述のあり方こそが、本書の叙述の軽やかさと展開の迫力につながっている。
以上は一読者として心に残った点であるが、評者はヒュームの哲学・倫理学を専門として研究している。以下ではその立場から、本書を通じてあらためて確認された点を指摘したい。
まず第一に、ヒュームが哲学および倫理学において抱いていた問題意識が、『イングランド史』を通して従来以上に明確な輪郭をもって浮かび上がってくるという点である。ヒュームの哲学は、観念連合を軸とするいわば機械論的な心理学においてきわめて精緻な分析を展開するが、他方で、そうした理論的精緻化がいかなる実践的関心のもとで配置されているのかは、必ずしも自明ではない。とりわけ『人間本性論』第二巻の情念論においては、情念の分類とその生成過程が長大な分量をもって淡々と論じられるため、その議論が何を目指しているのかはしばしば把握しにくい。しかし『イングランド史』を読むと、この情念論が、単なる分類的関心ではなく、世界を具体的に理解するための基礎的枠組みとして構想されていたことが明らかとなる。「復讐心」や「心の強さ」といった、歴史の推移に決定的な影響を及ぼしうる情念のあり方は、『人間本性論』第二巻においてすでに精緻に分析されているものである。また同書第二巻第三部の多くが「激しい情念(violent passions)」の原因の探究に割かれている点は、宗教的熱狂が人々の情念を激化・増幅させていくという『イングランド史』を貫く描像の理論的基盤を成していると理解することができる。不確実性による思考の動揺、抽象よりも具体への傾斜、習慣よりも新奇さへの志向が情念を激しくするというヒュームの分析は、熱狂的な人々がなぜ情念を苛烈なものとしていくのかを理解するための重要な手がかりを与える。淡々とした機械論的な情念心理学の背後に、ヒュームがいかなる現実理解を抱いていたのかを、『イングランド史』の叙述は雄弁に物語っているのである。
第二に、『イングランド史』の叙述は、ヒュームの自然主義的立場に対して、一定の緊張をもたらしうる点である。ヒュームは『人間本性論』第一巻の末尾において、理性的探究を徹底的に推し進めることによって深い懐疑に陥るが、日常生活、情念、社交的交わりを伴うある種の「自然な」理性使用のあり方を回復することによって、そこから脱出する。この点からヒュームは、単なる懐疑主義者ではなく、健全な理性のあり方にコミットする自然主義者として解釈されることが多い。しかし、訳者解説においても指摘されているように(1010)、『イングランド史』、とりわけカトリック陰謀事件をめぐる叙述が描き出すのは、情念や社交的交わりそのものが、陰謀論的思弁を拡散し、集団的熱狂を増幅させる役割を果たしうるという事実である。そして重要なのは、ヒュームがこうした情念の働きを、異常な逸脱としてではなく、人間に遍く見られる「自然な」傾向として捉えている点にある。このことは、理性的探究と熱狂的思弁との間に、いかなる基準に基づいて区別を引くことができるのかという根本的な問いを突きつける。「自然」や「情念」、「社交」への訴えは、それ自体としては、かえって熱狂的思弁をも正当なものとして包摂してしまう危険を孕んでいる。したがって、単に「自然」という語に訴えるのではなく、いかなる情念や心理的傾向が、正当な理性の使用と、破壊的な熱狂とを分かつのかについて、より精緻な分類と評価基準が求められることになるだろう(※)。『イングランド史』は、この問題を検討するための豊富な具体的素材を提供しており、ヒューム哲学解釈の発展にとって重要な参照先となるだろう。
※『イングランド史』に積極的に関連づけられるものではないが、こうした問題意識に基づく試みとして、拙論Okamura, T. (forthcoming), "Reason in Tran-quility: Hume’s Critique of Super-stition", The Philo-sophical Quarterlyがある。(犬塚元・壽里竜・池田和央訳)(おかむら・たろう=京都大学特定講師・西洋近世哲学史)
★デイヴィッド・ヒューム(一七一一―一七七六)=スコットランドの哲学者。イギリス経験論の代表的な論者の一人。スコットランド常識学派の哲学者としても知られ、歴史や政治思想、随筆、経済思想など著述領域は多岐にわたる。著書に『人間本性論』『人間知性研究』『政治論集』『自然宗教に関する対話』『わが生の思い出』など。
書籍
| 書籍名 | ヒューム イングランド史 Ⅰ・Ⅱ |
| ISBN13 | 9784815812096 |
| ISBN10 | 4815812098 |
