2026/04/24号 6面

刑務所で当事者研究をやってみた

刑務所で当事者研究をやってみた 向谷地 生良・村上 靖彦編著 小西 真理子  本書は札幌刑務所における受刑者Aさんの当事者研究を中心とした書籍であり、受刑者の累犯の問題を個人の資質ではなく関係の欠如として捉え直す試みである。Aさんは6歳で万引きを覚え、16歳で少年院、20歳以降は断続的に刑務所暮らしを送り、6回の服役経験をもつ、いわゆる「累犯障害者」と名指される人である。Aさんの当事者研究は2022年3月より開始され、2023年12月まで全16回行われた。Aさんは2024年5月に出所した。  当事者研究とは、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点「べてるの家」で誕生した実践であり、当事者を「治療される対象」ではなく、自身の困りごとを「研究する主体」として位置づける点に特徴がある。専門家らは心理教育を施す立場から降り、「Aさんの経験に学ぶ」姿勢を徹底する。本書は、このような実践を刑務所という場に導入するものであり、「ケア論はつねに、ケアからもっとも遠ざけられ、もっとも周辺化された現実を生きることを余儀なくされている人たちによって鍛えられ、再構成されなくてはならない」(4頁)という理念に支えられている。  本書は全6章からなっており、当事者研究の展開、Aさんの人生歴や語り、刑務官Xさんのインタビュー、そして出所後の関わりまでを多層的に描き出す。また同様の刑務所プログラムとして想起される、島根あさひ社会復帰促進センターを舞台にした「プリズン・サークル」がトラウマや加害行為に焦点を当てるのに対し、本書の試みには「あくまで研究をする当事者自身が「苦労として感じていること」が話題となる」(72頁)という独自性がある。犯罪はトラウマに対する反応ではなく、「生き延びるための〝自分助けの方法〟」(119頁)として捉えられているのである。  とりわけ重要なのは、当事者研究が刑務所における「特別扱い」として現れる点である。これまでAさんは、他者とのつながりが希薄であり、自分にこそできることがあるという実感を得難かった。しかし、当事者研究チームメンバーによって自身の経験に注目され、それが同じような苦労をしてきた人たちのためになるものであると語りかけられる。こうしたなかで当事者研究は、Aさんの居場所や希望になったのである。もしかしたら本書自体が、Aさんの存在意義やお守りのようなものになっているかもしれない。  一方で、そうした「特別扱い」は、刑務官として公平に受刑者と接すべきであるという職業規範に生きるXさんにとっては、ジレンマを生じさせるものだった。当事者研究における「特別扱い」とは、「均等に管理することから、個別のニーズを聴き取ってケアすること」、そして、「白黒が明確な瞬間的な管理から、時間を取って聴くケア」(156頁)への移行だった。その後、複数人が参加できるプログラムへと発展することで問題解決が図られたと記されてはいるが、あわせて、均質さと「特別扱い」が同時発生する場自体にも大きな意義があるだろう。そして、Aさんの語りを追うならば、「特別扱い」を通じてしか成し遂げられないものもあるのではないかと考える。  さて、このプロジェクトには後日談がある。本書の特筆すべき点は、当事者研究の最中だけでなく、その後のエピソードや関わりも(本書の刊行自体が途中経過であると思わされるような仕方で)収められていることである。第6章を読めば、当事者研究チームメンバーがAさんの出所後もその場限りではないつながりを編み出し、またそれを希求していることが伝わってくる。「当事者研究の理念の一つ「いつでも、どこでも、いつまでも」を軸に地道な伴走を続けていきたい」(191頁)というメンバーの想いには胸を打たれるものがある。  そして、そのうえでさらに注目に値するのは、メンバーらによる逃亡者たちへの反応である。Aさんをはじめ、後に当事者研究に参加したBさんとCさん、なんと全員が、三者三様の仕方で「逃亡失踪症」を体現したとのことである。通常であれば、相当の労力と感情移入が伴う試みであったからこそ、「裏切られた!」という感情があふれかえりそうなものである。しかし、当事者研究チームメンバーは、そうした情報が流れるたびに、不謹慎なほど大笑いをして盛り上がるというのだ。私はここにこそ、本当事者研究の特異な価値、そしてその真髄が見られると考える。ここに現れている風景は、逸脱や逃亡までもを人と人との関係性に生じる出来事と捉え、そうした弱くて強いつながりのなかでその生を見守ろうとするケアの姿勢を映し出したものなのではないだろうか。(こにし・まりこ=大阪大学准教授・臨床哲学・倫理学)  ★むかいやち・いくよし=北海道医療大学名誉教授。べてるの家理事長。著書に『向谷地さん、幻聴妄想ってどうやって聞いたらいいんですか?』など。一九五五年生。  ★むらかみ・やすひこ=大阪大学人間科学研究科教授・哲学・現象学的な質的研究。著書に『客観性の落とし穴』など。一九七〇年生。

書籍

書籍名 刑務所で当事者研究をやってみた
ISBN13 9784260065658
ISBN10 4260065653