鶴見俊輔の発想法
藤原 辰史・黒川 創編
田仲 康博
「時代の空気がどんどん酷くなっている」という認識のもとに本書は編まれた。世界各地で戦争が常態化し、国内では事件や事故が頻発し、経済も右肩下がりの状態が続いている。世相が荒れ模様だという感覚が多くの人に共有されているのも無理からぬことだ。では、問題の元凶はどこにあるのか。編者の藤原辰史は、言葉の価値の暴落、抵抗の難しさ、自律の困難さをあげている。
彼は言葉の価値の暴落の例として、大国の政治やネット上の言説にあらわれる暴力に注目する。暴力ありきの解決策が日常化し、異議申し立ての声が封殺されるような状況は国内外の至るところで見られる。SNS上に溢れかえる誹謗中傷の言葉の酷さについてはたびたび話題にはなるが、効果的な解決策は見出せないままだ。
二番目の抵抗の難しさは言葉の劣化と連動して起きる。藤原は一般市民の間に「暖簾に腕押し」という諦めの感覚が広がっていることを指摘する。国政に対する異議申し立ての声がないわけではない。しかし、各地で繰り広げられているデモを伝えようともしないマスコミの側にも大きな問題がありそうだ。評者の実感だが、言葉のないところに抵抗は生まれず、抵抗がないところに言葉は育たない。
この悪循環の根底には三番目の問題、自律の困難さが横たわっている。互いに監視しあうことで自己主張が難しくなり、結果的に自分らしく生きることが困難な状況が生まれていることを危惧する藤原は、大学生の間に広まる「言い控え」にその具体例を見ている。確かに自ら発言を控えるような空気があれば、そこに抵抗の芽が生まれることもないだろう。
言葉が劣化する一方で抵抗することも叶わず、個々人の自律そのものが困難になる。わたしたちはそんな時代に生きている。問題は、この状況にどう風穴を開けるかということだろう。本書の著者たちは、鶴見俊輔が生きた姿勢に指針となるべき言葉や行動を見出そうとしている。
本書はもともと「鶴見俊輔文庫」の設立に向けて二〇二五年に京都大学で開かれたシンポジウム「鶴見俊輔のコスモロジー」がきっかけとなって生まれた。「コスモロジー」という言葉遣いが示しているのは、鶴見の言葉や生き方の全てに注目すべきだということだ。したがって本書はあらゆる角度から彼の全体像に迫っていく。文庫には、鶴見の蔵書に加えて彼が残した膨大なノートや草稿、日記なども収蔵される予定になっている。
考えてみれば当然のことだが、ある人の考え方のコアな部分は、その人が生まれ育った環境、他者との出会い、受けた教育などいくつもの要素が絡み合ってできている。本書の著者たちはそれぞれの視点から鶴見俊輔を論じる。たとえば黒川創は、鶴見との個人的な思い出を交えながら、鶴見の雑誌編集へのこだわりや彼のノート類がもつ意味を説き明かす。鶴見の息子である鶴見太郎は父親の人物交流に焦点を合わせ、根津朝彦はジャーナリストとしての鶴見に注目する。鶴見の「転向論」の再読を試みる福家崇洋の論考に加えて、後半部に収録されたシンポジウムの記録や鶴見の日記なども読者の理解を助けてくれるだろう。
読み進めるうちに見えてくるのは、徹底して言葉にこだわった鶴見俊輔の生き様だ。書物の言葉やアカデミズムには距離を置いて、あくまでも生活者のレベルから言葉を立ち上げることにこだわった鶴見にとって、思索と運動に明確な区別はなかった。どちらも生きていく上で避けて通れないプロセスの一部であり、あえて言えば生きることと同義だったのだと思う。この点において、鶴見にとっての「抵抗」は思想ではなく、まず「身振り」や「態度」として現れていたこと、さらに彼が強さではなく弱さの方に身を寄せていたことに注目した石井美保のシンポジウムでの発言は重要なものだ。
下降の一途をたどる時代にあっては、大所高所から状況を概観するような「理論」はあまり役に立たない。こんなとき地に足をつけた場所から言葉を積み上げた鶴見俊輔の発想法から学ぶことは多いはずだ。もちろん、その先の作業は読者個々人が引き受けることになる。問われているのは、そこからどう自分の言葉を鍛え上げていくのかということなのだから。(たなか・やすひろ=元国際基督教大学教授・社会学)
★ふじはら・たつし=京都大学教授・農業史。著書に『生類の思想』など。
★くろかわ・そう=作家。著書に『暗殺者たち』など。
書籍
| 書籍名 | 鶴見俊輔の発想法 |
