シモーヌ・ヴェイユ思想入門
今村 純子著
辻 光一
本書はすぐれて独創的な入門書である。ヴェイユの来歴をごく手短に紹介した序章を除き、本書は「不幸は滑稽である」「力に触れることでモノになる」等、ヴェイユ自身の言葉を基本そのまま表題にした十章+終章から成る。彼女の劇的生涯を辿るという従来のヴェイユ本の定型に照らせば、この構成自体すでに「人生」ではなく「思想」に特化するものとして異色に映ろう。しかし何よりユニークなのは解釈の手法である。一般に思想を論ずるとなれば鍵概念を整理したり哲学史的背景を探ったりといった作業も考えられるところ、本書では「ヴェイユの思想が具体的な現場とぶつかる際の閃光を感受しうるように」と、ヴェイユと直接関係はなくとも深く響き合う表現が古今東西の文学、そして著者の専門でもある映画から多数集められているのだ。
この大胆な敷衍を通して著者は、ヴェイユ思想の精髄を鮮やかに磨き出してゆく。それは一つには、人間の悲惨をさまざまな場面で見澄ます透徹した眼に表れる。たとえば全章を通底するテーマ「不幸」については、ヴェイユ自身による比喩「地べたをのたうちまわる半分押しつぶされた虫」からカフカの『変身』が連想され、あるいは不幸な人に「注意」を傾けることの困難を教える介護福祉士の言葉や、津波に家族全員奪われた痛みを「なぜ」と叫ばせた映画『風の電話』が紹介される。これら多彩なイメージを浴びるなかで読者は、ヴェイユの語る「不幸」を抽象概念ではない鮮烈な印象として覚えさせられるだろう。また「力」を振るう人間自身が「モノ」と化したさまの描写も、いじめやハラスメントなどの身近な加害から『SHOAH』に証言される極限の暴力にまで触れており、その無気味な遍在を感じさせるに充分である。『水俣曼荼羅』や『脂肪の塊』の紹介からは、生きた嘆きを響かせる具体的情景とともに、ヴェイユが「善の不在」と呼んだ深淵を垣間見させられる。
しかし、こうした生の暗がりに真向かいながらも本書の叙述に閉塞感はない。それは他方では有名な『戦艦ポチョムキン』の一幕――非情な力の暴威に晒されても善を求めつづけてしまう姿が湧かせるような「美」の感情に、著者は終始不抜の信をおいているからだ。そのような美の閃光はまた、悪に縛られた他者の心にも倫理的覚醒を迫らずにおかない。論理でなくイメージを連ねる特異な方法の狙いは察するに、この不幸における美というヴェイユ思想の奥義を些かでも体感させることにある。その一点を自分だけの具体的な苦しみに重ねて感受できた者は、本を閉じた後に見える景色、駆られる行動の変容を通してヴェイユの精神を証する存在となりうるだろう。読み手の生を震わす衝迫力において本書はいわば芸術作品のような一面も有した稀な入門書なのである。
もっとも俯瞰的に読むと、解釈にやや偏りを感じる箇所もなくはない。たとえば本書では、いわゆる愛する者の不在ないし隔たりに関する章句が複数引用される。これらは原典をみると、いずれも究極の不在者「神」を論じた文脈に位置している。ところが著者の解説は『東京物語』の老夫婦や『耳をすませば』の雫と聖司を例示するのみで、そうした人間の絆に類比されていた肝心の神との関係に触れていない。このことを一例として本書には、ヴェイユの宗教性をオミットする向きが見受けられるのだ。むろん入門書で扱える論点は限られているし、ヴェイユの思想をあくまで「誰でもないその人自身の思想を熟成させる光」として受取るなら書き手の心にひときわ感光したテーマがそこで前面に出るのも理解できる。ただ逆にいうと本書の思想には、他の誰でもない著者の個性がすでに深く刻まれている。「その人だけの水紋を描いて」という著者の声に応えるためにも、本書を読んだ者には是非引用元のテクストに素潜ることも勧めたい。ヴェイユの思索世界を自由に泳ぎゆく先達として、そのとき本書はまた別の相貌を見せてくれるはずだ。(つじ・こういち=京都大学博士後期課程・宗教哲学)
★いまむら・じゅんこ=立教大学特任教授・美学・表象文化論。京都大学大学院文学研究科修了。学術博士(一橋大学)。著書に『シモーヌ・ヴェイユの詩学』『映画の詩学』など。
書籍
| 書籍名 | シモーヌ・ヴェイユ思想入門 |
| ISBN13 | 9784334109783 |
| ISBN10 | 4334109780 |
