デカルト再考
谷川 多佳子著
山田 弘明
著者はパリ第一大学でデカルト哲学を修めた学者で、専門の著書・論文が多くあり、デカルトやライプニッツの訳で知られる。日本の近代哲学(仏語論文がある)の他に、メランコリーの文化史、表象論なども手掛けている。北アフリカに赴き、チュニジアの学会誌にも寄稿している。
本書は「デカルト再考」と題する。副題が示すように、「われと自然」という角度からデカルト的二元論の後始末を目指す書である。これまでデカルトはベーコンとならんで、人間と自然とを断絶した人、人間の自然支配の元凶のように戯画的に批判されてきた。著者の意図の底流には、それをなんとか修復したいという気持ちがあると思われる。それを本書に出て来る「憂鬱」と呼ぶなら、デカルト研究者はみな同じ憂鬱を共有している。そこで著者は、厳密なテキスト研究を基礎に、デカルト哲学の歴史的な受容と批判の検証、現代思想の側からの批判の検討、他の文化圏との比較を行い、デカルトの出した問題を見直そうとする。
2部から構成されている。第1部では、デカルトの哲学の要点とべーコンの自然の見方を概観し、西洋近世の哲学者(パスカル、スピノザ、ライプニッツ、ヴィーコ)による受容と批判を検討する(ヴィーコの章には本居宣長が登場する)。日本の近代思想(西田幾多郎、三木清、和辻哲郎など)にも目を配り、日本的な「自然」の見方を提示する。第2部では、まずデカルトにおける自然・懐疑・心身の結合などを論じる。つぎに二元論の「ゆくえ」として西洋の現代思想(フロイト、ダマシオ、レヴィ=ストロースなど)を検討する。最後に、ヘルダーや和辻に導かれて比較文明論な観点から、イスラーム圏における「砂漠のわれ」と自然を考える。以上で「われと自然」の問題を相対的に鳥瞰したことになる。それを踏まえて著者の言いたいことは、デカルトの二元論を単純に画一化すべきではなく、『情念論』などを厳密に読み直せば、問題解決の糸口になる論点がいくつも見出せる、ということかと思われる。
これは狭い意味のデカルト解釈ではない。テキスト研究を基にして、広く西欧・日本におけるデカルト批判を検証し、イスラーム思想における問題の捉え方を参考としつつ、二元論の「ゆくえ」を模索するものである。その論述は、著者の視野の広がりをドローンで見渡しているようで爽快である。評者は同感するところが多く、三木清と『方法序説』との関係など教わることも少なくない。アヴィセンナの「われ」は、日本のデカルト研究にとって新鮮であろう。多くの豊富な論題が手際よくまとめられているのは、著者の学識と力量を物語る。すべて書き下ろしであり、詳細な注や索引も完備している。
「われと自然」との対立という問題は、デカルトにおいては「心身結合」の領野に回収され、たとえば痛みを感じる真の「人間」の問題として受けとめられている。たしかにデカルトの機械論は古来の「生きた自然」を無視しているかもしれない。だがそれは学問研究の仕方として自然を対象化しているのみで、実生活では彼は幼い娘を亡くして悲嘆に暮れた。心を休めるには森の緑、花の色、飛ぶ鳥を眺めるのがよいとしている(本書にもその指摘がある)。他方、機械論でよいという見方もできる。たとえば生成AIに人間のような心はあるかという問題について、デカルトの考え(機械に心はない)は今でも十分通用するだろう。ただ脳と心との関係については解答を明示していない。
二元論に対する現代のステレオ・タイプな批判(環境破壊、資本主義的?など)は、デカルトにとって思いもよらないことであったであろう。これらの批判に対して著者はテキストの精読をすすめ、「われと自然」についての見方を再検討する要あり、と控え目な議論をしている。もしデカルトの二元論に責があるとするなら、どこまでそれを負うべきなのだろうか。あるいはその必要はまったくないのだろうか。著者の立場から二元論の「ゆくえ」の見通しをぜひ聞きたいと思う。いずれにせよ、本書はこれからの哲学研究の在り方の一つの範を示している。とくに若い世代にすすめられる。(やまだ・ひろあき=名古屋大学名誉教授・哲学)
★たにがわ・たかこ=筑波大学名誉教授・哲学。パリ第一大学博士課程修了。著書に『メランコリーの文化史』など。一九四八年生。
書籍
| 書籍名 | デカルト再考 |
| ISBN13 | 9784867840146 |
| ISBN10 | 4867840149 |
