2026/09/04号 4面

山口仲美著作集 別巻 日本語の問題

山口仲美著作集 別巻 日本語の問題 山口 仲美著 田中 牧郎  平安時代には、男が声をあげて泣いたが女は声をあげて泣かなかったことを明らかにしたり、藤原道長を扱う歴史物語の表現から権力者になる7つの資質を導き出したりと、興味深い話題が満載の日本語の歴史の本である。全8巻の山口仲美著作集(2018~2020年)完結後に書かれた、新書3冊分(Ⅰ~Ⅲ部)と、エッセイ・インタビュー・対談を集めた付編とからなる「別巻」である。研究者として認められるまでの苦しい時代を語る付編の内容には驚かされるが、山口仲美氏と言えば、オノマトペ(擬音語・擬態語)の歴史研究と古典文学の表現研究で、独自の境地を開拓した日本語学の第一人者である。  本書に収められたオノマトペ研究(Ⅱ部「男が「よよよよよよ」と泣いていた 日本語は感情オノマトペが面白い」)は、人間の泣き声と笑い声を対象としたものである。泣き声の研究からは、男は声をあげて泣くが、女は声をあげて泣かない(平安時代)、男も女も、声をあげて泣かない(鎌倉・室町時代)、男も女も声をあげて泣く(江戸時代)、男は声をあげて泣かないが、女は声をあげて泣く(明治以降の現代)という変遷を明らかにしている。発見された事実だけでも本当に面白いが、事実の背後への「なぜ」の解釈の一つ一つが鋭い。例えば、男が泣き声をあげないのは、戦争の時代は男性に強さを求めたからだとする。泣き声から日本史の本質を突くのである。  古典の表現研究(Ⅲ部「千年たっても変わらない人間の本質 日本古典に学ぶ知恵と勇気」)は、平安文学12作品から20のエピソードを取り上げて、その表現を解析することで、当時の人々の行動や感情を生き生きとよみがえらせ、人間の本質への洞察を展開していく。恋愛や人間関係に悩み、人生の岐路で迷う現代人にもそのまま役立つ知恵が、1000年前の古典の中にこんなに詰まっていたのかと、目が洗われる思いがする。  Ⅱ部、Ⅲ部は、山口氏の生涯をかけた研究の到達点であり、氏に導かれながら、現在につながる古典の表現を味わうことで、日本語を使って日本に生きる幸せをしみじみと感じることができる。しかし、山口氏が読者に特に読んでほしいと願っているのは、Ⅰ部「日本語が消滅する時」なのではないか。著作集完結後に新たに取り組まれた、日本語が消滅する危機を論じる衝撃的な内容で、書名『日本語の問題』にそのまま対応しているからである。  世界には、すでに消滅した言語や、いま消滅の危機に瀕している言語(「危機言語」と呼ばれる)が多数ある。それらを研究した世界各地の研究者の報告を紹介して、言語が消滅する場合を、①話者が全滅してしまった時、②強国に同化政策を施されてしまった時、③自発的に他言語にのりかえた時、④征服したにもかかわらず征服された側の言語にのりかえた時、⑤別の言語を派生させ役割を終えた時、の五つに整理している部分は、危機言語とは何かが学べる格好のガイドになっている。そして、日本語の場合は、③の原因によって消滅する可能性が最も高いと結論づける。  日本人が自発的に日本語を捨てて他言語にのりかえるなんて、あるはずがないと多くの人は思うだろう。しかし、次のようにしてその危険性を警告するのである。明治維新直後や、太平洋戦争直後など、国が不安定になり自信を失うと、日本語をやめて英語やフランス語にのりかえようという議論がたびたび起こっており、日本人の中に日本語よりも西洋の言語の方がすぐれているという意識が存在していそうである。そして、2000年に小渕恵三首相の諮問機関が提唱した、日本人は、日本語と英語のバイリンガルになることを目指そうという、英語第二公用語化案を俎上に載せる。この政策構想は、日本が国際競争に負けないために、社会の中における英語の地位を高めていこうというものであった。アラスカの人々が、英語に移行することこそ安定と成功への道だと感じて、母語であるエスキーモー語と決別に向かっていること、中南米諸国で、スペイン語を話す社会的利点の前で、母語であるインディヘナ言語が失われていっていることなどを見れば、日本人が日本語よりも英語を使う方が有利と思うようになれば、やがて日本語を選ばない人が増え、ついには日本語が消滅してしまうというわけである。現在、学術界でも実業界でも、英語を共通言語とする動きや、英語による発信に高い価値を置く傾向は強まり、英語教育の強化はいっそう広く推進され、親は子に進んで英語を学ばせようとしている。日本語と英語のバイリンガルの時代の次にやってくるのは、優勢言語のみを話すモノリンガル時代であるとする帰結は、納得できる話である。  そんな日本語の未来の危機を回避するために、私たちはどうすればよいのか。日本人への英語教育法の改革、移民への日本語教育の充実など、いくつもの方策を提唱しているが、「日本語は先人たちの苦心の賜物である」「母語ほど大切なものはない」という意識を、日本人が確かに持つことの重要性を説いているところが、圧巻である。発音、文法、敬語、文字、文章、語彙に分けて日本語の特質を解説したのち、音声言語中心の英語に対して、文字言語としての側面を強く持つ日本語は、文章も語彙もユニークになるのだという説明は、腑に落ちる日本語論である。日本人が母語である日本語の特質をよく知ることが、母語をいつくしみ、豊かに使い続けようという意識を強めることになるわけである。  日本語の消滅という問題設定からは、水村美苗氏の『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』(2008年、筑摩書房)を想起する人も多いだろう。国際語である英語ばかりで知が蓄積される現代に、地域語である母語で書く作家の、日本語の書き言葉への熱い思いから、国語教育の改革を提唱する本だった。山口氏も、代表作の一つ『日本語の歴史』(2006年、岩波新書)を、「日本語がなくなったら」という問題意識から筆を起こしていたが、今回の本で、その深い思いを、危機言語の研究成果を取り入れて詳細に言語化して、私たちに届けてくれたわけである。母語である日本語の良さを未来に伝えようという思いを、読者の心の深いところに宿してくれる本である。(たなか・まきろう=明治大学教授・日本語学)  ★やまぐち・なかみ=埼玉大学名誉教授・日本語学。著書に『平安文学の文体の研究』『犬は「びよ」と鳴いていた』など。一九四三年生。

書籍

書籍名 山口仲美著作集 別巻 日本語の問題
ISBN13 9784759925708
ISBN10 4759925708