2026/05/29号 3面

異境のフロイト

異境のフロイト 上尾 真道著 福本 修  秀逸なタイトルの書『異境のフロイト』は、著者が10年ほどの幅で書き連ねた論考をまとめたものである。著者は、「フロイトはいったい何を開始したのか」と問う。それは端的に、精神分析ではないのか? そう答えて終わりになるほど、精神分析は静的でも完結したものでもない。精神分析は世界各地に広げられる過程でさまざまな理論に多様化したが、それはフロイトの時代においても起きている。著者はそれを一つの知的伝説として、「諸々の社会的・文化的・政治的な配置に則して」その波及と変異とを追いかけようとする。するとフロイトはどのような顔を見せ、その肖像を描かれるだろうか。  著者は最初に、『夢解釈』における「冥界」を訪れ、「哲学者フロイト」はそこを、正常から切り離された場ではなく葛藤の形態として捉えたとする。『アエネーイス』の一節に由来する有名な銘、「天井の神々を説き伏せられぬのなら、冥界を動かさん」は、女神ユノーらの情動が蠢く叙事詩の世界に入るというフロイトの宣言である。  次に著者は、フロイトが神経症の生成図式とした「ダイモーンかつテュケー」の意味するところを、四男のエルンスト・フロイトが指摘したように、ゲーテの詩を参照して読み解く。ダイモーンは、限定的な個性・性格的なもの・運命を規定するものであり、テュケーは偶然・外傷として働くものである。一九一二年のフロイトはダイモーンに、祖先の経験が沈殿している可能性を想定しうるものとする。つまりは、獲得形質が遺伝する可能性である。ここには危ういフロイトがいるように思われる。著者は「転移神経症展望」に即して、「三つの転移神経症と三つのナルシス神経症」を対比して見せるが、神経症という言葉上の一致に基づく分類は、現実に対してどこまで意味を持つのか。著者は、論稿の発表を差し控えたフロイト以上にフロイトであるようである。ともあれダイモーンは思弁の力を発揮して、謎の反復の奥にある「死の欲動」の概念を導く。  第三章「大衆と戦争」は、フロイトが同時代のヨーロッパの変動に呼応して、集団・暴力・支配といった主題を扱うさまを論じる。ここでのフロイトは「生者を扱わないという病跡学の原則から離れ」ているとされる。フロイトは学術的には臆さず大胆な発言をしても、現実へのコミットには必ずしも積極的ではない。そのことは、彼が治療としての精神分析で、欲動充足の断念や現実に対する「諦念」を強調しているように見えることに確認される。しかし、「現実」の別の側面に注目することができる。それは、現実における「偶然の出会い」、偶然という「不意の要素の混入」である(第四章「アナンケーと偶然」)。著者は、「医師フロイトと思想家フロイト」の対比を導入して、自然研究者としてのレオナルドの中に、フロイトの「不信仰の同志」を見出す。レオナルドの知的探究が、「母への愛という母胎を背後に忍ばせる」ものに尽きるならば、それは欲動論が言う「昇華」に従っており、庇護の錯覚に戻っている嫌いがある。しかし「偶然への開かれ」があるならば、「己が従事している事柄そのものを変えること」に通じるだろう。第五章の最後で著者は、フロイトの営為を「歴史的真理の破壊的啓示を己に突き立てつつ、むしろ生の制作に役立てようとして試みた思想的な対抗創造」としている。  実際には、ここにもフロイトの複雑さがあるようである。彼には、老オイディプスのように、哲学からは距離を置き、他の諸科学の批判は意に介さず、精神分析に籠もろうとした面もある。それは特定の「世界観」にも党派性にも与しない賢明さに繫がる一方で、精神分析自体が「異境」あるいは一片の「歴史的真理」を持つ妄想、「彫像のフェティシズム」に留まる可能性と背中合わせである。著者がデリダに倣って「地理精神分析」を言うとき、どの地において、どの地に向けて語っているのだろうか。著者が今日のパレスチナ状況に触れているのは、どのフロイトに触発されたのだろうか?(ふくもと・おさむ=精神科医)  ★うえお・まさみち=広島市立大学准教授・精神分析・思想史。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。著書に『ラカン真理のパトス―一九六〇年代フランス思想と精神分析』など。一九七九年生

書籍

書籍名 異境のフロイト
ISBN13 9784000617505
ISBN10 4000617508