2026/06/12号 3面

民族の平和的共存は可能か

民族の平和的共存は可能か ヤン・ゴードアン・ド・クルトネ著 渋谷 謙次郎  本書はロシア帝国統治下のポーランド出身の言語学者ボードアンの民族問題論の数々を収集したものであり、現下のウクライナ戦争はもとより世界中でやむことのない民族・地域紛争にとって、きわめて示唆的な内容となっている。言語学者としてのボードアンは、本書編訳者の桑野隆氏によって、ソシュールの構造主義言語学の先駆けと位置付けられており(本書末尾には同氏による「ソシュールとボードアン」が掲載されている)、また多くの社会評論で知られる意味ではチョムスキーと比較されている。  ボードアンが警戒を隠さないのは「歴史的権利」という言説である。実はこれが今なお数々の紛争における言説空間を覆っており、プーチンはドンバス地方やウクライナ南部(エカチェリーナ2世の時代にトルコと戦火を交えてロシア帝国領になった)を「歴史的ロシア」と呼ぶのみならず、ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人のいわゆる「三位一体説」を古代ルーシという歴史の同根性に求め、それを現代における「ルースキー・ミール」(ロシア世界)という地政学的圏域に昇華させ、実質的にはロシアが西側諸国の干渉をはねのけウクライナ、ベラルーシにも影響力を行使できるという歴史的根拠にしている。  本書に掲載されたボードアンの数々の論評をふまえると、こうした「歴史的権利」の言説は単にマイノリティにとって抑圧的であるのみならず人間の尊厳を損なう。ボードアンは帝政ロシアにおけるウクライナ問題についても数々の発言をしているが、注意しなければならないのは、当時の帝政ロシア下のウクライナ人(しばしば小ロシア人と言われた)の民族的尊厳やナショナリズムは、ツァーリ政府やロシア人との対抗において醸成されたというよりもむしろ「大ポーランド主義」との関係で形成されたということである(分割され消失する以前のポーランド=リトアニアでは地主のポーランド人、小作人のウクライナ人という支配構造があった)。しかもポーランド人であるボードアンが決然と「大ポーランド主義」を拒絶している。こうしたポジションは、当時としては革命党派の間でさえも「常識」ではなかったであろうし、そもそもマルクスもエンゲルスも「歴史的権利」を反転させたような「歴史なき民族」論を展開し、マジャール(ハンガリー)人やポーランド人は先進的な「歴史的民族」であるが、その周辺の国家を有さないような中小の民族(ウクライナ人がそれに該当するだろう)は歴史なき民であり「歴史的民族」に吸収されていくのが文明の進歩であると考えていた。  そんなわけだから、ボードアンのように「歴史的権利」を持ち出すのではなく個人をベースに民族的権利を保障しようと試行錯誤することは、今からみると一見リベラルだが、当時の右の民族主義や左の革命党派との関連でいうと、かなり孤高の作業であったと言わざるを得ない。むろんボードアンは、何でも個人の決定にゆだねよと突き放しているのではなく、個人の民族的権利を保障するための連邦制の構想のみならず議会における代表権、学校自治の案まで出している(当時そうした構想に比肩するのは、おそらくウクライナ出身の政治思想家ドロホマノフであろうし、ロシア帝国外ではオーストリアのカール・レンナーやオットー・バウアーの文化自治の構想と共鳴するかもしれない)。  ボードアンは「ロシア人のためのロシア」、「ポーランド人のためのポーランド」というスローガンを放棄すべきであると訴えているが、そうなると「〇△人のための〇△国家」という発想を拒否したソヴィエト連邦が同時に連邦制を組織し、かつ少数民族の母語教育まで保証したこの「アファーマティブアクションの帝国」が、なぜ崩壊したのか。ソ連は大ロシア主義やロシア語支配の偽装だったのか。むろん、そんな単純な話ではないだろうが、言語学者のボードアンはエスペラントに共感を寄せている。ソ連でも1920年代にエスペラント運動がかなりさかんだったが、その主導者の一人ドレーゼンはスターリン時代に粛清され、エスペラント自体、ソ連では下火になった。  最後に、ソ連からの独立を選んだウクライナ(ウクライナなきソ連というのは、現実には難しかっただろう)では、「大ウクライナ主義」、「ウクライナ人の歴史的権利」なる言説はあまり聞かれない代わりに、周辺諸国(ロシアのみならずハンガリー、ルーマニア)における一部の勢力が現ウクライナ領の一部に対する「歴史的権利」を主張することもある。それに連なって、もし隣国ポーランドが「歴史的ポーランド」を主張し始めたら、現在の西ウクライナはもとより、ドニプロ川右岸くらいまで元々ポーランドの領土という理屈になってしまいかねない。しかし現下では、ロシアという共通の「敵」を前にポーランドは(バルト三国と並んで)ウクライナ支援という立場を崩していないが、国内に多くの避難民などを抱えるなかで、排外主義的な言説が頭をもたげてくる危険性もないわけではない。  そうした意味でも本書におけるボードアンの論評の数々は、現下の世界情勢の中で、なおも読み返してみる価値がある。(桑野隆訳)(しぶや・けんじろう=稲田大学教授・ロシア法)  ★ヤン・ボードアン・ド・クルトネ(1845―1929)=言語学者。帝政ロシアの分割領ポーランド王国で生まれる。構造主義言語学の先駆として知られる。

書籍

書籍名 民族の平和的共存は可能か
ISBN13 9784907188658
ISBN10 490718865X