フットボール・マネー
ミゲル・デラニー著
有元 健
ちょうどこの原稿を書いているさなか、北中米W杯決勝トーナメントでアメリカ代表選手の出場停止を取り消すためにドナルド・トランプがFIFAに圧力をかけたのではないかと批判が盛り上がっている。一人の独裁者によってスポーツの公平性が失われたと怒っているのかもしれないが、それは違う。正しくは一人の愚かな男のおかげでサッカーというスポーツがすでに根元から腐敗していたことが可視化されたのである。
私たちはことあるごとにサッカー界の暗部についてその断片を耳にしてきたはずだ。FIFAの汚職、欧州主要リーグにおける選手の年俸や違約金の高騰、カタールW杯の労働環境や人権問題等々。ただそのたびごとに私たちは一流選手たちのプレーに、つまりサッカーのスペクタクルに心奪われてそれを見過ごしてしまったのである。だが本書はそれを許してくれない。この二〇年間にサッカーがアメリカ他の投機的資本や中東国家によって略奪されてきたことを徹底的に描き出すのである。
例えば二〇二一年のサウジ公的基金(PIF)によるイングランドの古豪ニューカッスル・ユナイテッドの買収。PIFの会長はサウジアラビア皇太子ムハンマド・ビン・サルマーンであり、当時彼にはジャーナリスト殺害の容疑がかかっていた。またPIFとサウジ国家は実質的に一体のものであり、この買収はクラブをサウジ国家が所有するということを意味した。それにも関わらず、ニューカッスル・ファンはマンチェスター・シティのような成功が訪れるだろうとそれを喜んで受け入れたのである。これが紛れもなく現代サッカーの姿なのだ。
一九九二年、プレミアリーグの設立。というと聞こえはいいが、実際はサッカーリーグに所属していた主要五クラブが衛星放送局を立ち上げたメディア王ルパート・マードックとともに画策した造反劇だ。そこから古き良きイギリスのサッカー文化と私たちが想像するものは音を立てて崩れていく。プレミアリーグの主要クラブはマーケティングのためにシーズンオフにアジアを含めた世界ツアーを行うようになり、放映権の販路を拡大していく。こうしてプレミアリーグをはじめとする欧州サッカーがグローバルコンテンツになるにつれ、クラブは投資対象になり、さらにスポーツ・ウォッシングの道具となっていく。
本書に示されているようにこうした動きの発端は、ソビエト崩壊後のロシアで巨万の富を築いた実業家ロマン・アブラモヴィッチによるチェルシーの買収だった。これ以降、イングランドサッカーの象徴ともいえるマンチェスター・ユナイテッドやリヴァプールといったクラブがアメリカ資本によって買収されていく。著者によれば地域社会の重要な文化的ハブであったサッカークラブが単なる「投資の対象」になったのだ。そして現代のサッカー界に衝撃的な影響を及ぼしているのがカタール、UAE、そしてサウジアラビアである。イングリッシュ・プレミアリーグをこの一〇年間席巻しているマンチェスター・シティはアブダビによって実質的に所有されており、そして今年のチャンピオンズリーグ覇者であるPSG(パリ・サンジェルマン)はもはやカタールの象徴である。こうしたクラブは選手やスタッフ獲得の投資を惜しまないため各国リーグだけでなく欧州サッカー全体に財政的不安を与えているが、それにもかかわらず世界中のサッカーファンが魅了されるブランドとなっているのである。
こうしたクラブの登場によってサッカークラブは地域社会から乖離したものとなっていった。土曜日の午後に近隣のスタジアムで地元生え抜きの選手たちを応援し続ける「おらが町のおらがクラブ」のイメージはもはや現実のものではない。それを考えると、地域社会に密着した欧州型のサッカー文化を日本に根付かせようというJリーグの百年構想は皮肉でさえある。Jリーグの発足と時を同じくして欧州ではそうしたサッカー文化そのものが崩壊に向かっていたのだから。
現在Jリーグでは一部のクラブをメガクラブ化するために成果ベースの資金分配のシステムを導入するなど新自由主義的運営方針に舵を取っている。その結果、J3など下位カテゴリーの地方クラブなどでは毎シーズンの運営資金の確保さえおぼつかないと耳にする。また横浜F・マリノスやRB大宮アルディージャなどが「マルチクラブオーナーシップ」をもつグループの傘下に入ったことは記憶に新しい(シティフットボールグループは横浜F・マリノスを手放すようだが)。本書は日本のサッカーが本当に正しい方向に進んでいるのかを考える指標にもなるだろう。
本書の帯には「サッカーは誰のものなのか」とある。二〇二四年以降サウジの国有石油会社アラムコがFIFAのグローバルパートナーであり、二〇三四年のW杯はサウジアラビアの単独開催だ。サッカーがふたたび私たちのものになる希望はあるのだろうか。大規模なバブル崩壊や化石燃料の枯渇を待つしかないのか。いや、私たちがマネーを信仰しさえすれば、サッカーはすでに私たちのものなのかもしれない。(山中拓磨訳)(ありもと・たけし=国際基督教大学上級准教授・カルチュラル・スタディーズ)
★ミゲル・デラニー=サッカー・ジャーナリスト兼作家。
書籍
| 書籍名 | フットボール・マネー |
| ISBN13 | 9784582627077 |
| ISBN10 | 4582627072 |
