- ジャンル:哲学・思想・宗教
- 著者/編者: スレイマン・バシル・ディアニュ
- 評者: 粟飯原文子
アフリカ哲学のために
スレイマン・バシル・ディアニュ著
粟飯原 文子
アフリカの思想・哲学の重要な著作が相次いで紹介されている。カメルーンのアシル・ンベンベの複数の主著に続き、このたびセネガルのスレイマン・バシル・ディアニュの仕事の格好の導入となる著作が翻訳刊行された。ディアニュはセネガルとアメリカの大学で長きにわたって教鞭を執ってきた、現代アフリカを代表する哲学者の一人である。
本書はアフリカ哲学の主要な論点をたどり、普遍的な知の営みとされる哲学それ自体への視座を問い直す。従来の哲学史は、古代ギリシアに起源を求め、その継承の歴史として描かれる。アフリカはしばしば哲学の周縁、あるいは哲学不在の地として位置づけられてきた。とりわけサハラ以南アフリカは口承の世界とみなされ、「書かれた哲学」を基準とする哲学史の外部に置かれてきた。
ディアニュはこうした見方に異議を唱える。思想や学知は言語や文化のあいだを移動し、異なる世界との出会いのなかで変容しながら形成されてきた。アフリカもまたその邂逅の結節点であった。トンブクトゥに代表される学問都市には豊かな写本文化が存在し、イスラーム世界や地中海世界との知的交流が行われていた。アフリカを無文字社会とみなす通説は、ヨーロッパ中心主義的な歴史観の産物にほかならない。アフリカ哲学は、西洋哲学に対置される別個の体系ではなく、多様な知的伝統が交わり、相互に影響を与え合う場としてとらえられる。
本書を貫く鍵となる概念は翻訳である。この考え方は、プラシド・テンペルスの『バントゥー哲学』をめぐる議論に端的に示される。テンペルスは「バントゥー」諸社会の存在理解の中心に「生の力」を見出し、その世界観を体系化しようとした。この1945年の著作はアフリカ哲学の出発点として語られることが多い一方、植民地支配の正当化になるという批判も受けてきた。
テンペルスはバントゥーの「具体的な言語」と西洋の「抽象的な言語」を対比させた。ディアニュはこの区別が誤りであると主張する。哲学的思考は特定の言語に属するわけではない。あらゆる言語は抽象化の能力を持ち、哲学の媒体となりうる。
ディアニュはテンペルスの限界を認めつつも単純には退けない。注目すべきは、テンペルスがキリスト教の概念をバントゥーの思想世界との対話のなかでとらえ直そうとしたことである。そこには宣教という文脈に規定された非対称な関係が存在するとはいえ、異なる思想的語彙を媒介しようとする努力も見出される。
ディアニュはこの点に翻訳の可能性を見る。哲学はある言語や文化によって独占されることはない。普遍性とは、一つの中心が他を包摂していくことではなく、異なる思想的潮流の対話と翻訳を通じて開かれていく地平として理解される。
本書では存在論と口承性に加えて、時間や政治思想といったテーマが論じられる。とりわけ印象的なのは、未来についての思索である。アフリカ諸語やアフリカ的時間理解には未来への志向が欠けているという見方に対し、未来はあらかじめ存在するというよりも、人びとの実践において創り出されると論じられる。ここにはベルクソンやベルジェとの対話も確認できる。未来は予測されるのではなく、行為を通じて切り開かれるのだ。
政治思想の章では、ニエレレ、ンクルマ、サンゴールのアフリカ社会主義が再検討され、人権論へと議論が展開される。共同体的価値を重視する伝統を踏まえながらも、個人の権利を保障する新たな思想的枠組みの必要性が説かれる。著者の関心は一貫して、アフリカを特殊な例外として扱わずに、世界的な思想的課題にアフリカから応答することにある。
ディアニュの議論の最大の魅力は、アフリカ哲学の存在証明自体を問題化し、それを必要としてきた哲学史の前提を問い直すところにある。その意味で本書は、アフリカ哲学についての省察である以上に、わたしたちが哲学と呼んできたものの輪郭を描き直す企てなのである。(廣田郷士訳)(あいはら・あやこ=法政大学教授・アフリカ文学)
★スレイマン・バシル・ディアニュ=哲学者。セネガルのサン=ルイに生まれ、フランスに学ぶ。コロンビア大学名誉教授。著書に『哲学としてのアフリカ芸術』『ポストコロニアル・ベルクソン』『普遍化』など(いずれも未邦訳)。一九五五年生。
書籍
| 書籍名 | アフリカ哲学のために |
| ISBN13 | 9784791777778 |
| ISBN10 | 4791777778 |
