- ジャンル:文学研究・評論
- 著者/編者: 戸部田誠(てれびのスキマ)、つやちゃん、小田部仁
- 評者: 土佐有明
星野源論
戸部田 誠(てれびのスキマ)、つやちゃん著/小田部 仁編
土佐 有明
「星野源とは一体何者か?」——それを論じて欲しいと最も切実に希求していたのは、ほかならぬ星野源自身だったのではないだろうか。確かに、星野源に対する批評は足りていなかった。それは、彼が非常にわかりづらい存在だからだろう。ソロ名義で音楽活動を行い、俳優として活躍し、秀逸なコラムも書く。人によって星野源のイメージは千差万別だ。そんな彼の実像をさまざまな面から考察したのが本書である。
まず、テレビについて執筆することの多い戸部田誠は、女装した星野が母親役を演じたNHKの音楽バラエティ番組「おげんさんといっしょ」を俎上に載せ、同番組を「夢であいましょう」や「シャボン玉ホリデー」の系譜に位置付ける。クレイジーキャッツに憧れる星野にとってダンス、コント、トークが渾然一体となった同番組は極めて重要だった。戸部田は堺正章もザ・ドリフターズもタモリもミュージシャン出身だったことを挙げ、星野もその遺伝子を継いでいるひとりだというのだ。
戸部田も引用しているが、星野は自著『よみがえる変態』で、〈普通に見えているけど実は攻めている〉ものがジャンル問わず好きで、タモリについて〈普通なのにアナーキーな存在、ポピュラーの象徴なのに濃密でオルタナティブであり続ける存在〉と述べている。星野源もまた、帯にあるように「異端にしてど真ん中」の、アナーキーなポップスターである。戸部田の論のコアにあるのはこうした見立てだ。明察である。
一方、文筆家のつやちゃんは、「言葉を急がない音楽」という章で、「意味過剰時代のポップと『Gen』」という論考を展開する。まず彼は、アーティストが〈何を言っているのか〉〈どんな態度なのか〉を性急に求める昨今の風潮を確認する。〈出来事や発言、作品が立ち上がるとほぼ同時に、「これは何を意味するのか?」という問いがSNSを中心に即座に投げかけられる〉ような状況のことだ。これは、三宅香帆『考察する若者たち』でも登場した論でもある。
三宅は同書で、若い世代は、正解のない解釈を楽しむ「批評」よりも、正解を当てるゲームとしての「考察」に圧倒的に興味を持つ傾向があると述べている。ここでの正解を「意味」と言い換えてもいいだろう。そして、つやちゃんは星野が「意味」過剰の時代から一定の距離を置いていることを説く。事実、星野はヒット曲「恋」で〈意味なんかないさ 暮らしがあるだけ〉と歌っている。ただし星野は、必ずしも意味を否定しているのではない。つやちゃんの言葉を借りるなら〈意味が到達するまでの距離を、意図的に引き延ばしているだけだ。その距離の中で、音は遊び、関係は続き、感情は名づけられる前の状態で息をしている〉のだ。
筆者がここで想起したのは、千葉雅也『センスの哲学』である。千葉は、人々が日常で何かを見る時に、「これは結局どういう意味なのか?」と〈意味の消費〉に汲々としがちなことを指摘する。そして、それよりも、その何か自体が持つ波打ちやリズムを面白がることを、センスの良さのひとつとして提示する。星野源の音楽もまた、感情や意味は固定されないが、一方で音楽がもたらす〈心地よさ〉は担保されている。この心地よさは、千葉の言うリズムとほぼ同義であろう。星野源の曲にリズムを強調したブラック・ミュージック調の曲が多いのは偶然とは思えない……というと言葉遊びのようだが、実際そうなのだから仕方ない。もちろん、ここでいうリズムとは、意味への固着から解放された〈遊び〉や〈波打ち〉と言い換えられる。
先ほど引いた〈意味なんかないさ〉という歌詞にもビートはある。彼の演技にも、文章にも、リズムが、ビートが、波打ちがある。それも、彼固有のリズムに他ならない。〈意味なんかないさ〉というのは、要するに意味よりも大事なリズムがこの歌詞を駆動している、ということではなかろうか。三宅香帆の本に話を戻すと、本書にはお手軽な「考察」ではなく、れっきとした「批評」が息づいているのだ。名著である。(とさ・ありあけ=ライター)
★とべた・まこと=ライター。著書に『タモリ学』『笑福亭鶴瓶論』など。
★つやちゃん=文筆家。著書に『スピード・バイブス・パンチライン』など。
★おたべ・じん=編集・文筆。星野源の『YELLOW MAGAZINE』に創刊から携わる。
書籍
| 書籍名 | 星野源論 |
| ISBN13 | 9784106111273 |
| ISBN10 | 4106111276 |
