イマジネーション講義
ポール・リクール著
長門 裕介
私たちは日常生活の中で「イメージ(想像)」や「イマジネーション(想像力)」という言葉を頻繁に用いている。「イメージで語らず本当のところを調べないと」「実家にいる犬が元気にしてるところを想像する」「写真はイメージです。実際の商品と異なることがあります」「チェロの弓を持つときは卵を持つようなイメージで」「もっと他人に対する想像力をもつべきだ」というようにである。
こうした用法を眺めていると「イメージ」には実にいろいろなものが担わされているのがわかる。現実とのギャップ、不在(いまここにないもの)の対象への志向、対象の写しやモデル、比喩や隠喩、未知の対象への思いなしや先入観からの解放……などがすぐに思い当たるだろう。
ポール・リクールの『イマジネーション講義フィクションの現象学』(以下、「本書」)は、このように馴染み深くも複雑な「イメージ」と「イマジネーション」についての哲学史における位置づけを見定めたうえで、その哲学的なポテンシャルを再考するという野心的な講義の記録である。
リクールの哲学的キャリアは1930年代から2000年代初めまでとかなり長期にわたるが、本書は1975年に行われたシカゴ大学での講義が再構成されている。リクールは20世紀後半に活躍したフランスの哲学者としては例外的に、かなり早くから英語圏の分析哲学の成果に注目していた哲学者であり、この講義でもライルとサルトルの比較検討のほか、刊行されて間もないネルソン・グッドマン『芸術の言語』に言及するなど、大陸哲学と分析哲学を架橋する試みがなされている。
本書の内容については編者序文と訳者解題が十分な分量を取って解説されており、400ページを超える本書を読み通すにあたって極めて有益なガイドを提供してくれている。本書を手に取った読者は少なくともまず編者解題を読むことを強く勧めたい。こうした親切な編者序文と訳者解題がついている以上、私の任は細かい構成を語るよりも本書の読みどころ(と私に思われるもの)を挙げることで、この本に興味をもってもらうことにあるだろう。
私の見るところ、リクールの結論は、イマジネーションは「似ている」が「そのものでない」ものを「あたかも as though」として現出させる力なのだ、ということである。実家の犬はいま私の目の前にいないのだが、「あたかも」眼前にいるかのように、「あたかも」それが私が可愛がっているあの犬であるかのようにイメージすることができる。私が持っているのは卵ではなくチェロの弓なのだが、「あたかも」それが卵であるように取り扱うことができる。
この分析の含意は、イマジネーションを「生き生きした現実の印象が時間を経て弱められたもの」、「虚偽の源泉」、「感覚的印象と知的直観の中間物」、「単純な観念を連結させて複合的で抽象的な観念を作り出すもの」と考える哲学史上の位置づけ(「再生産的イマジネーション」)から離れて、生産的なニュアンスを付与することができる点にある。言い換えれば、生産的なものとして捉えられたイマジネーションは現実との「批判的距離」をとること(18)や「発見の現象学」(294)を可能にしてくれるのである(本書でさほど強調されないが、同年の別の講義『イデオロギーとユートピア』を踏まえれば、批判的距離や発見の可能性は政治的なニュアンスも帯びているとも言える)。
本書でリクール自身が挙げている例をひとつ見てみよう。ジョン・コンスタブルらによってなされた風景画の成立は、自然を単なる背景から独立した対象へと変え、我々の視覚を拡張した。こうして生産的イマジネーションは、単なる美的な鑑賞に留まらず、世界認識の変革をもたらす。そして風景の見方を我々が確立した後も風景画の価値は残り続ける。「我々は何度も美術館に戻り、コンスタブルを愛し続けることができる。我々にとって、普通の風景と絵画の風景の間に緊張感が残っているからである」(358)。
リクールはこうした生産的イマジネーションが働く領野を「フィクション」と呼んでいる。ここでいう「フィクション」は文学などの虚構的物語に限定されない。現実に対するモデルやメタファー、詩的言語といった道具立てを用いて、先に触れた風景画だけでなく抽象絵画や詩についても多くの紙幅を割いている。物語としてのフィクションについてはのちの『時間と物語』での展開を待たなければならないが、フィクションと現実、あるいはイマジネーションと科学の関係について語る本書の記述は十分スリリングである。
もしかしたら、ここまで述べてきた「イマジネーションは事物の見方を拡張してくれる」という話はわかりきったことだ、と言われるかもしれない。しかし、リクールは本書の前半でアリストテレスから始めてイマジネーションの哲学史を点検したうえで、こうした生産的イマジネーションの居場所を哲学にもとめるためにはいくつかのブレイクスルーが必要だったことを強調している。ひとつのブレイクスルーは言うまでもなくカントの『判断力批判』であり、ここにおいて「中間」や「媒介」にとどまらない、悟性から構成される規則の体系とそれにとどまらない自由な戯れのせめぎあいとしてイマジネーション=構想力の理論が打ち立てられた。もうひとつのブレイクスルーはフレーゲ以降の現代哲学であり、概念の意味としてのイメージ(心的な絵)という発想から解放された結果、心の哲学や現象学においてイマジネーションの解明はむしろ発展したとリクールは考えているようだ。
1975年という講義の年は、ライルやサルトルを改めて検討し、ゴンブリッチやグッドマンと自身の考えを突き合わせるのに最適な時期だったのではないだろうか。フランスとアメリカを往復していたリクールの講義は当時の思想シーンの多産性をうかがわせるものである。(ジョージ・H・テイラー、ロバート・D・スウィーニー、ジャン=リュック・アマルリック、パトリック・F・クロスビー編)(山野弘樹訳)(ながと・ゆうすけ=大阪大学講師・倫理学)
★ポール・リクール(一九一三―二〇〇五)=フランスの哲学者。著書に『意志的なものと非意志的なもの』『生きた隠喩』『時間と物語』『記憶・忘却・歴史』など。
書籍
| 書籍名 | イマジネーション講義 |
| ISBN13 | 9784788519077 |
| ISBN10 | 4788519070 |
