無意識の発見
工藤 顕太著
福本 修
著者は本書を、「あなた」に語り掛けることで始める。「あなた」には仕事や子育てや介護があり、勉強や友だち付き合いがある。つまり「あなた」は成人で、勉強だけをしていればよいのではなく、生活があって家族や友人のいる人である。そこで悩みが生まれ、満たされないものを抱えていても、多くの人たちは精神分析の方に向かうことはない。症状があったら行くのは病院である。そうした中で「自分が本当に望んでいるものは何か?」と問うことを、「自己」を巡る問いとして理解するときには、既に精神分析的な次元に触れている。この新書が読者をそこへと飛躍せしめるかどうかについては断言できないが、臨床心理の領域で実践している人やそれを目指している人・強い関心を持っている人たちにとっては、コンパクトながらよくまとまっていて、疑いなく大変有用である。
第一章でフロイトの催眠法から精神分析への移行を、第二章ではエディプス・コンプレックス発見史と展開、そして第三章ではフロイトの死角だった「暗黒大陸」を論じた女性分析者たちについて、第四章で対象関係論者としてビオンとウィニコットを取り上げているのは順当であり、選択された主題と挿話は要を得ている。不自然な新しい訳語はなく、例えば性欲動が自己保存欲動に「寄りかかる」のように、一部は従来訳より自然な表現に改められて読みやすいほどである。著者のフランス系哲学の研究者である立場が有益に働いていそうなのは、テクストの表現の細部に立ち入ることで得られる理解の広がりである。一例は、「性的トラウマの死後作用action posthume d’un traumatisme sexuel」である。そこには神話の層がある。読者が注意した方がよいのは、学派や著者によって同じ事柄に違う用語を使ったり、同じ用語で違う事態を指したりすることで、例えば「空想」の意味は、クライン派とウィニコットでは異なっている。
第五章はラカンを紹介しつつ、バリントの仕事に触れている。ラカンについての説明、例えば「なぜ「父」ではなく「父の名」が問題とされるのか」は、類書になく平易かつ明瞭である。ただ、ラカンが対象関係論を一定程度持ち上げるジェスチャーをしたのは、自我心理学攻撃の一環ではないだろうか。また、著者がバリントを取り上げたのは、受講生との交流に由来するとのことだが、著者の「セクト的なものに対するほとんど生理的な嫌悪」も関係しているのかもしれない。
その点が関係していそうなのは、第六章で「日本におけるユング受容の一断面」を論じていることである。本書は一貫して、精神分析の展開を「知の運動」の水準で説こうとしている。しかしながらそれを担う個人は、身体と欲望を持っており、集団の力動と絡まり合いながら言説を残している。要は、言行不一致は政治家ばかりではない。読書案内のリストだけを見るとやや心許ないが、エレーナ・ベッセルマン・ヴィアーナに言及している著者は、さまざまなテクストに、より慎重に接近することだろう。
本書で一箇所補正を要するように思われるのは、ビオンの「思考thought」を巡る論述の部分である。そこで「思考」は「思考されるべきもの、にもかかわらず未だ思考されていないもの」を指し、「その具体的な中身は、受け止めきれない体験、理解できない現実、処理できない感情などさまざま」とされている。これは、「コンテナー/コンテインドモデル」としては正しいが、ビオンはそもそも全てを思考することはできないことに直面して、アルファ要素とベータ要素の区別を導入したのである。それは「心にならないmindless」ものを取り上げようとする試みである。そして「ベータ要素」と呼んではみたものの、心身症・自閉・暴力…とその関連領域の広大さに半ば茫然とし、扱い難さによって膠着状態にあるのが、現代精神分析の現況と言ってもよい。メチエは著者の次の舞台かもしれない。(ふくもと・おさむ=精神科医/代官山心理・分析オフィス)
★くどう・けんた=人間環境大学心理学部准教授・精神分析。早稲田大学大学院博士課程修了。博士(文学)。著書に『精神分析の再発明』『ラカンと哲学者たち』、訳書にデリダ『ジャック・デリダ講義録 死刑Ⅱ』(共訳)など。一九八九年生。
書籍
| 書籍名 | 無意識の発見 |
| ISBN13 | 9784065441077 |
| ISBN10 | 4065441072 |
